スピードはなくともマラソン向きの動きとマイペースの性格で成長

前回のMGCが行われた19年、山下は駒澤大の4年生だった。
「駒澤大で練習されていた中村匠吾(31、富士通)さんや、先輩の大塚祥平(29、九電工)さんたちが出場されていたので、沿道で応援しました。見ている側としては面白くてしょうがない大会ですけど、走る側はすごく緊張するレースなんだろうな、と想像していましたね」。
2年時から箱根駅伝エース区間の2区を任されていたが、区間上位の走りはできなかった。区間賞争いや、10000mなどトラックで優勝争いをするスピードがなかったのだ。

将来的にはマラソンで勝負してはどうか、と駒澤大の大八木弘明監督(現総監督)からはことあるごとに言われていた。
「MGCを見たとき、マラソンを走ればいつかは自分も出るだろう、というくらいは考えましたが、4年後に自分が1番を狙うなんてことは夢にも思いませんでした」。

スピードのない山下がどうして、マラソンで日本のトップレベルに成長できたのか。ちなみに山下の10000mの自己記録は大学3年時にマークした28分31秒89で、MGC出場資格を持つ64選手中下から20番目である。

トレーニング、競技へのスタンス、性格など、パフォーマンスを決める因子は複数あるが、マラソン向きの動きができることが大きな要因だった。三菱重工の黒木純監督が山下の動きの特徴を以下のように話したことがあった。
「腰高のフォームで、股関節から脚全体がビュッと前に伸びます。重心より前に接地してしまったらブレーキが大きくなりますが、振り出されて重心にしっかりと乗り込んで接地していく。力を使わずに進む効率の良い走り方ができる選手です。その動きが上りでもできるから上りも楽に走ることができる。そこまでスムーズにできる日本人選手はほとんどいません」。

性格的には「マイペース。欲張らない強さ」だと黒木監督は言う。
冒頭のマラソン全成績に現れているように、圧倒的なスピードも持つ選手が初マラソンから快走したわけではなく、山下は1回1回、成績を上げていった。2回目の大阪マラソンこそ優勝を狙って走ったが、2時間05分51秒で日本人1位となった今年の東京マラソンは「自己新記録」(山下)だけを考えていた。 だがMGCでは、明確に1位を狙って走る。「これまでとは違ったマラソンになる」と、山下も覚悟を決めている。

「初めての感覚のマラソン」でチャレンジャーになれるか

世界陸上ブダペストで入賞することより、MGCで優勝することの方が難しい。その理由として次のような状況があると、山下は言う。「外国人選手は世界大会に出てくる選手でも、走ってみないと本当の力はわかりません。今回の世界陸上でも、自分より良いタイムを持っていても下位に沈んだ選手がいれば、自分より上位に入った選手で自己記録が下の選手もいました。そういった選手たちのレースを、トラックやハーフマラソンを含め生で見ているわけではありません。それに対してMGCで戦う選手たちは、ほとんどみんな知っている選手たちです。この人はラストがあるので最後まで行ったら負けるかもしれない、この人はロングスパートがあるかもしれない、この人は中盤から攻めてくるかもしれない。そういうことを色々と考えてしまうと緊張して、難しくなってくる」。
 
東京マラソンも世界陸上ブダペストも、山下が先頭に立つシーンがあった。それは自分のペースを維持しただけで、トップに立つ、勝負をする、という気持ちはまったくなかったという。

だがMGCは勝ちに行く。だからこそ、上述のような緊張感を大会前から持ってしまう。「今回の世界陸上でも30kmまではそれほど、レースは動きませんでした。しかし4年前のMGCでは、もう至るところで選手が仕掛け合っています。その中でペースが落ち、最後でまたすさまじく上がった。気を抜くところはまったくないマラソンだったと思います。今回は(開催時期が)1カ月遅くなるので涼しくなりますが、それでどう変わるのか。かなり難しいレースになると思います」。

何が起きるかわからないレースを勝ち抜くには何が必要なのか。良い準備(良い練習)をすることが一番重要だが、「それだけでもない」と山下はこれまでの経験や、周りの選手を見て感じている。「すごく良い練習をしてきた人全員が、良い結果を残しているわけではありません」。レース中の変化に対する対応力や、自身の余力の判断力、勝負に出る思い切りの良さなど、多くの勝負決定因子がある。「準備ができていることが前提で、走りながらどうするか、だと思います。余力がなくても一度仕掛けてみたら、何かが変わるかもしれません。勝負強い人が何人もいて、自分にラストスパートがあるわけではないので、仕掛けるときに思い切って仕掛ける。そういうことを意識して、勝ちに行くレースをできればと思います」。

東京でも世界陸上でも、そういうレース展開はしていない。大阪がそれに近い感覚で勝負に出たが、MGCは周りのメンバーがまったく違う。「初めての感覚のマラソンになると思います。今までとは緊張感が違うマラソンになる」。

ただ、そこを自覚しないでスタートラインに立ち、走り始めてプレッシャーを感じるのは一番良くない。山下はある意味、イメージトレーニングをしているのだろう。「チャレンジャーとして、ただ走るだけ、っていう心理状態で走れないかな、と思っています」。

五輪選考レースという大会の性格上、100%そういう心理状態にすることは難しい。しかしマイペースの山下なら、他の選手よりはチャレンジャーに近い心境で走ることができる。

■MGCとは?
マラソンの五輪代表は16年リオ五輪までは複数の選考会で3人の代表を選んできたが、条件の異なるレースの成績を比べるため異論が出ることも多かった。そこで東京五輪から、男女とも上位2選手は自動的に代表に決まるMGCが創設された。MGCに出場するためには所定の成績を出す必要があり、一発屋的な選手では代表になれない。選手強化にもつながる選考システムだ。

五輪代表3枠目はMGCファイナルチャレンジ(男子は12月の福岡国際、来年2月の大阪、3月の東京の3レース)で設定記録の2時間05分50秒以内のタイムを出した記録最上位選手が選ばれる。設定記録を破る選手が現れない場合は、MGCの3位選手が代表入りする。大半の選手は絶対に代表を決めるつもりでMGCを走るため、一発勝負の緊迫感に満ちたレース展開が期待できる。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)