イブニングニュースでは語ることのできる人が少なくなっている戦争証言をお伝えしています。きょうは93歳の女性です。全国一斉の学徒総動員で、今でいう中学3年生の時に倉敷市の軍需工場で働くことになったこの女性…。「嫌とは言えなかった…」戦争が作り出す異様な空気感を当時の体験とともに語ってくれました。

(斎藤良子さん・93歳)「14歳で出たわけじゃないですか。出動でただ水島の工場へ行く。行ったら零戦を作っていると分かった。嫌うんぬんより、これをするんじゃという…。決められたコースしか、自分の自由にどういうことは全然なかったから」

笠岡市に暮らす斎藤良子さん、93歳です。1944年10月、女学生だった14歳の時に軍需産業などでの人手不足を補うためのいわゆる学徒動員の声がかかりました。終戦までに全国で340万人を超えたとされる学徒動員。

斎藤さんが向かったのは倉敷市水島にあった三菱重工業航空機製作所です。

戦闘機を作る工場として多い時には約3万人が働いていたとされます。

ここで毎日8時間、使い方を習ったばかりの特殊な機械で戦闘機の部品を作りました。

(斎藤良子さん・93)「油が散るんと鉄くずが刺さって熱いし、痛いんです。年があんな年でようあんな計算したり…。まぁ慣れでしょうね。よくああやって出来たんじゃろうなと」

「今でいうと身柄が拘束されているようなもんですが。どこへ行くということもできんですしね」「(工場の外では)憲兵隊というのがあって、ひそひそ話をしてもみんな捕まるですが、国の抗議みたいな話をしていたら」「今の自由と比べてと言われても、比べようがないんです」

寮と工場を行き来するだけの単調な毎日。年が明けると状況が変わります。1945年4月、工場は空爆にあい、7人が亡くなります。斎藤さんは防空壁と呼ばれる頑丈な壁の内側にいたため無事でした。

(斎藤良子さん・93)「(爆弾の落ちたあとは)アリ地獄のようだった。遺体を見る事ができなかった」

残った工場の設備は各地に分散され、斎藤さんの職場も倉敷市の中心部に新たに作られた工場に変わります。5月には物資不足で部品が入らなくなりますが、それでもなお、国のために働けと出勤を求められたといいます。

(斎藤良子さん・93)「しまいにはする作業がなかった。部品を作ると言っても…材料が。工場へ行ってもすることがないんよ。機械にかけるもんが。それでもまだ、総決起、総決起といってるのだから」

6月の水島空襲では、かつての職場の仲間3人を失いました。その後、広島の原爆ではいとこを亡くします。周囲の人の命が奪われていく中でいつしか辛い、悲しいといった感情が湧かなくなったといいます。

(斎藤良子さん・93)「受け入れる以外なかった。数が増えてきたら麻痺していきますが、感情も。最初の頃は(人が死ぬと)気の毒にと思っていたけれども、終いには、あーあー。国のために、というだけで」

多くの尊い命を奪った戦争。もう2度と繰り返してはならないと静かに訴えます。


(斎藤良子さん・93)「なんでいがみ合うかなと私は思う。その根本さえ直していったら、みんな和気あいあいと気楽に生活できる。自分がモノがなくても、また人が助けてくれる。自分が良かったら、人を助けてあげる。これで済むことじゃがなと思う」「平和な国で、いう願い。それだけ…」