原爆症の症状で苦しみ“死の宣告”を受けた父・一郎さん

鈴木 一郎さん:
「ここの一角が(自宅・会社があった場所)。勉強部屋がこっち(爆心地方向)を向いてたんですけど、そこにおらずに下(一階)に降りていたから助かったようなもんです」

父・鈴木一郎さんがいたのは出島町でした。
強烈な爆風で、2階のガラス戸は粉々に割れ、家中に突き刺さっていました。
辺りからは火の手が上がり、岸壁には次々に遺体が流れ着いたといいます。

鈴木 一郎さん:
「この角の辺りに『水上警察署』があったんですよ。
遺体が流れてきて、この辺ですくい上げて陸上に上げていた」

「長崎搾油工業株式会社」
爆心直下の駒場町にあった鈴木家の会社です。
一郎さんは父親と共に、この工場の焼け跡に入り、従業員とみられる遺骨を拾いました。

『もはや、そこはかつての長崎の町ではなく、どこか異次元の世界に来ているような錯覚に陥るほどに変わり果てていた』(手記『永遠の愛』より)

鈴木 一郎さん:
「許せるものと、許せないものが世の中にあるとすれば、許せないものの筆頭が、原爆を投じたものと、日本・アメリカ双方の戦争関係者。
その連中の罪の重さは、決して永遠に軽くなるものではないと思いますね」

一郎さんはその後、全身に発疹が現れ、髪は抜け落ち、原爆症の症状で“死の宣告”を受けます。
しかし、母親の必死の看護で一命をとりとめました。

被爆翌月に授業を再開した新興善国民学校。
一郎さんと智子さんは、ここの6年生でした。救護所にもなった学校では、授業の傍らで、次々と人が死んでいきました。

鈴木 智子さん:
「校庭の真ん中で(遺体を)燃やして…遺体置き場が別にあって、そこを通って教室に行く。頭から離れないですね」