就任後、初の平和祈念式典に臨む被爆二世の鈴木 史朗長崎市長。
被爆者である鈴木市長の両親、そして祖父が体験した”8月9日”に迫ります。
誕生祝の赤飯を炊いてもらっていた時に原爆がさく裂

原爆を生き延びた家族です。
戦後、弁護士から転身し市長となった田川務元長崎市長の家族写真。隣に写っている男の子は、当時2才の鈴木史朗市長です。

就任から3か月、様々な場面で被爆二世であることに触れてきました。
鈴木市長にとって“8月9日”は、生まれた時から特別な日だったと言います。

鈴木 史朗 市長:
「8月9日は私の母の誕生日でもあります。母の誕生日でありながら、母の誕生日を祝えない、そういう8月9日をずっと過ごして参りました」

被爆者である両親は、今も長崎市内に暮らしています。
母・鈴木 智子さん。そして、父・一郎さん。
母方の祖父が田川元市長です。

鈴木 智子さん(89):
「たまたま私のお誕生日だったので(朝から)小豆ご飯を母が炊いてくれていた」

母・智子さんが住んでいたのは本紺屋町、今の中央公園前です。
原爆の投下目標だった「常盤橋」の目と鼻の先でした。
8月9日は満12歳の誕生日で、母が炊いた「お赤飯」の香りが家中に立ち込めていました。

鈴木 智子さん:
「ピカっとして、本棚がドーンと倒れてきた。
もうちょっと右の方に寝転がってたら、本箱の下敷きになってたかもしれない」