5月22日、伊豆諸島では震度5弱の地震が起きましたが、今から100年前、伊豆の東海岸は地震による大津波に襲われました。当時の子どもたちが津波の体験を書いた作文集が静岡県伊東市の小学校に保存されています。災害の記憶を次の世代に伝えたいと学校が力を入れています。
相模湾に面した伊東市の北部、宇佐美地区の小学校です。
<伊東市立宇佐美小学校 山下晃広校長>
「この中のですね、大正大震災記というこれですね、これが原本です」
Q.これが100年前の?
「そうです。大正12年9月、大正大震災記、こういう形で」
今から100年前、関東大震災を体験した小学生が震災の直後に書いた作文集です。700人あまりの子どもたちが津波から必死に逃げ、命を守った様子などをつづっています。
<伊東市立宇佐美小学校 山下晃広校長>(大震災記朗読)
「つなみだ、つなみだとないてくるので、むちゅうで上の山ににげました。みているとうちや舟をたくさんさらっていきます。私のうちはながされませんでした。私はうれしかった」
「やっぱり津波が来て友だちの家が津波でもっていかれたってことも書いてありましたので、大変怖い経験をしたんだなと思いました」
この作文集は伊東市立宇佐美小学校で校長が代々、受け継いできました。1923年、大正12年9月1日に発生した関東大震災。伊豆の東海岸には地震発生からわずか5分で津波が襲いました。津波の高さは、熱海で最大12m。海沿いの家々が壊れ、熱海と伊東で合わせて約200人が命を落としました。しかし、子どもたちの作文集によれば、当時の宇佐美村、今の伊東市宇佐美地区では1人の犠牲者も出なかったといいます。なぜ、村人全員の命を守ることができたのか。その理由が寺の石碑に刻まれていました。
<行蓮寺の石碑>
「元禄十六年十一月二十二日深夜、大地が鳴動し、津波が突然襲ってきた。あっという間の出来事で逃げ遅れ、死者は凡そ三百八十人に達した」
宇佐美地区は関東大震災の220年前にも同じような津波に襲われ、多くの死者が出ています。その教訓が代々受け継がれ、素早い避難につながったとみられます。
関東大震災の体験を、次の世代にもつなげたい。小学校では、100年前の作文集を図書室で読めるようにしています。
<宇佐美小学校 木村誠教頭>
Q.こちらは校長室にある原本を復刻したもの?
「そうですね、こちら復刻はされていますけれど、誰にでも手に取ってみられるように1冊にコンパクトにまとまっています」
<岩﨑大輔記者>
「当時の文章がそのまま読めるようになっているんですね」
<文章朗読>
「私はお父さんと死ぬと思っていましたが、良い塩梅に命を拾いました。津波のため、家は流されました」
<木村誠教頭>
「やっぱり何しろ子どもたちが当時の1年生、2年生って、この子たち私と僕と同じ学年なんだなと、見てすぐそこで味わえるのが他人事ではなくなる一つのポイントなのかなと」
宇佐美小学校では高台への避難訓練などと合わせて、貴重な作文集を今後も防災教育に生かしていく方針です。
注目の記事
【3月9日】レミオロメンのカバーで1000万回再生 当時高校生だった3人が15年後の「3月9日」に再会した理由「この日しかないと思って【前編】

「おとうは、かっこいいけど…」 津波で父は行方不明 15歳の野球少年は30歳に 娘ができて初めて気づいた“父の偉大さ”

【講演全文・前編】3・11当時の気仙沼警察署長が「決断と後悔」語る【東日本大震災15年】

「この子と飛び降りようと…」2歳で失った左手 それでも息子は前を向き パラ陸上で世界を狙う白砂匠庸選手 見守り続けた両親と笑い合えるいま

「検診の痛みは、治療の100分の1」私が子宮頸がんで失った、腎臓と、自由と、子どもとの時間 放送作家・たむらようこさん

南極の氷が「最大42キロ」後退 失われた面積は「東京、神奈川、千葉、埼玉に匹敵」30年間の衛星データで判明 将来の海面上昇に警鐘









