東京大空襲から78年を迎えた。1945年3月10日、アメリカ軍の攻撃によって東京の下町一帯が火の海と化し、一晩で10万人が死亡したとされている。そして、終戦まで、日本各地で空襲は続いた。戦争で一般市民が標的になるとはどういうことなのか。当時の体験を語れる人が年々減少する中で、空襲は「同級生の死体と夜を明かすこと」だったと鮮明に記憶を伝える女性がいる。
「赤ちゃん背負ったお母さんが川に浮いていた」空襲がもたらした市民の犠牲
現在92歳の桂子さんは、1945年に横浜で空襲にあった。当時の記憶は、いまでも鮮明だ。戦争は、女性や子供など弱い立場の人たちも多く犠牲になると訴える。

「当時、14歳でした。学徒動員で、伊勢佐木町の中心地にある野澤屋という百貨店で、海軍の通信機の機械を作っていました。そこに、大きな音がして、アメリカ軍による爆撃が始まりました。
アッという間に火が広がりました。隣に病院があったのですが、赤ん坊たちを連れたお母さんたちが『いれてください!』と何度も百貨店のドアを開けようとしました。開けるべきかどうか、迷いました。なぜなら、ドアを開けると火が一緒に飛び込んでくるからです。
目の前で焼け死にしそうな親子達を見捨てることはできませんでした。火が入るのを承知で、ドアを開けました。命からがらで、母親と赤ん坊たちは中に入りました。しかし、その際に火が店の中に入ってきて、カーテンに燃え移りました。
ああ、バケツに水を入れてあって良かった!あの水が無かったら地下室の全員死んだかもしれない!」
空襲が落ち着いて、恐る恐る、桂子さんは外に出てみたという。すると、空襲前まであった建物が消えていた。変わり果てた景色に言葉が出なかった。ただただ歩き続けると、川の中に死体が浮かんでいるのが見えた。それは、赤ちゃんを背中におぶった女性、おそらく赤ちゃんのお母さんだった。
「そのお母さんの顔は見えませんでした。水の中に沈んでいたから、それとも首が無かったのかも知れません。見えなくて良かったと思いました。もし顔を見ていたら、それが一生忘れられなくなったかも知れません」
そのままあたりを歩いたが、電車は止まっていて、家には帰れなかった。その夜は、学徒動員されていた百貨店の中で寝ることになった。そこにいた男性から言われたことは、今でも忘れられないという。
「『あそこにあるタンスは開けてはいけないよ。君の同級生の死体が入ってるからね』と言われました。その同級生は、家が近所だったので、空襲後に帰宅しようとしたそうです。でも家に着<前に、落ちてきた不発弾に頭を直撃されて亡くなったそうです。
私はその晩は、彼女の死体が入っているタンスの傍のデスクの上で寝ました。その夜は泣きませんでした。泣けませんでした」
この経験は、その後の桂子さんのある信念につながっていく。それは「戦争は憎い。戦争は地獄」ということ。そして、だからこそ「平和でないといけない」という強い想いだった。














