東京電力福島第一原発事故で帰還困難区域となった福島県浪江町の山間にある津島地区。事故前は約450世帯、約1400人が、豊かな自然の中で、協力し合って暮らしていた。原発事故によって奪われた。2023年に避難指示が一部で解除されたが、98%以上がいまも帰還困難区域のままである。

住民の約半数が「ふるさとを返せ!」と訴え、国と東電に原状回復を求めた裁判の2審が、2026年3月に結審した。10月に判決が言い渡される。震災と原発事故から15年。原告たちのふるさとへの思いと原発事故の被害を、これまでの取材から振り返る。(前編から続く)

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「悩んだけども、どうしようもねえもんな」

 特定復興再生拠点とは、帰還困難区域の中に設定された避難指示解除を前提とした区域のことである。これまで「将来にわたって居住を制限する」とされてきた帰還困難区域の中で、放射線量が低い場所を対象とし、国費で除染や家屋の解体を行う。 

 9年ぶりに三匹獅子舞のおはやしが鳴り響いてから1か月。今野正悦が運転する車で、私は再び上津島に向かっていた。
 同じように蛇腹のゲートを通る。桜はすでに散っていた。もう吹き付ける風に冷たい緊張感はない。阿武隈高地の山あいに、遅れた春が訪れていた。
 1か月前、解体を知った私は、体のどこかが削られるような思いであった。
 悶えるだけの日々が続いたが、私にできることなど何もない。放送記者として、せめて映像に残したいと申し出ると、今野は快諾した。
「ここも一軒、壊しちゃったんだよな」
 ハンドルを握り、辺りを見渡しながら今野はつぶやいた。「除染作業中」と表示されたピンク色ののぼりと重機が止まっている。道路はところどころ、荒れている。穴や隆起した箇所を通るたび、私たちの体は激しく揺れ、会話が途切れた。 
 自宅までの道中で、今野は車を止めた。1メートルほど伸びた薮の中に、新緑のコゴミが生えている。
「こんなに生えているのは見たことないな。みんな採っちゃうから、震災前は」
 帰還困難区域に限らず、福島県内ではキノコや山菜の出荷制限は続いており、地元の山の味覚が食卓から失われて久しい。取材に先立つ打ち合わせの折、今野は自宅でコゴミのおひたしを振る舞った。今野は笑いながら勧めた。
「買ってきたやつだから大丈夫だ」
 自宅は高台にある。アクセルを目いっぱい踏んで、木や草で覆われた急な傾斜の門口を進むと、山を背負った今野家に到着した。庭には腰の高さほどの雑草が生え、ツツジが咲いている。

 最初に案内されたのは、自宅ではなく隣接する物置だった。古いタイヤや一輪車が雑然と置かれている。
「ここは昔、厩だったの。俺が小さい頃、小学校に上がったか、上がってないかくらいに作ったところ。5、60年になると思う。馬がいなくなってからは牛を立てた(飼った)こともあったな。それもいなくなって、物置になったんだけど。昔はみんな馬を飼っていて、その後は牛。昔の農家には、みんないたんだ。堆肥もとれて一石二鳥。化学肥料とか、トラクターとかが入って、いなくなっちゃったけどな。うちもそうだったけど、牛とか生き物を立てて(飼って)いると、どこにもいけないんだよ」

 勝手口を解錠して、私たちは自宅へと入った。「そのままどうぞ」と言われて、土足のまま入った。台所は比較的新しい。システムキッチンの床はフローリングで、ダイニングテーブルが置かれている。息子の結婚をきっかけに、20年前にリフォームしたと言う。かつては土間があり、かまどがある台所であった。それゆえ、広さはかなりのものである。
 壁に飾られた絵が目に入った。クレヨンで描かれた子どもの絵である。孫が5歳の頃に描いたもので、振り袖の写真が同じ箇所にピンで留めてある。
 ここに来るまでの道中「もう持ち出すものはほとんどない」と話した今野の言葉を思い出した。食器類、家族の写真、掃除機、賞状……。がらんどうの家を想像していたが、至る所に、その日まであった暮らしが残されていた。
 台所から廊下でつながる部屋が、江戸時代に建てられた部分にあたる。
 廊下でつながり、正面玄関のある居間の半分ほどは、かつて土間だった。たたきの高さが1メートル近くあるのは、その頃の名残である。土間では、夜な夜な三匹獅子舞の練習が行われた。土間の先は畳敷きの部屋で、囲炉裏を囲んで先生方が指導する。

「囲炉裏の周りには先生方が座っていて、土間で練習する人たちを教えたの。ここでみんな踊って、先生方がいて教えたんだな」
 居間に隣接する座敷は2部屋である。「いま残っている中で最も古い部屋だろう」と今野は説明する。ふすまを開け放てばかなり広い大広間にもなる。居間から土間が消えてからはこの場所が獅子舞の練習場所となった。そのうちの一部屋には2畳分の広さを持つ神棚が鎮座している。1か月前、三匹獅子舞の神楽が演奏されたのもこの場所で、2011年3月のカレンダーは、やはり貼られたままである。あの日は、金曜日だった。
 黒々と光った梁をポンポンとたたいて、今野は淡々と説明する。
「いまは材木を角材にするのに、ジーっと削って板にするでしょ。これは丸太をちょうなで削って角材にしたのよ。これは一本の木」
 素朴でありながら、独特のリズムと統一感がある柔らかな凹凸が梁いっぱいに広がっている。古い日本家屋で見られるちょうな削りと呼ばれる手法だ。手間も時間もかかる手法で、いまではほとんど採用されない。先人の技術と美意識を伝える梁である。
 今野は、20年前に台所や居間をリフォームした際の、大工の言葉を忘れられない。
「『相当古い貴重な建物だから、壊さないで』ってな。そう言われたんだけどもな……」
 今野はそこまで話すと、春の日差しが降り注ぐ縁側へと歩き出した。天井には大きな穴が開き、板がだらんと下がっている。その穴を見つめながら、今野は説明する。
「屋根裏にハクビシンがいるんだ。気持ち悪がって、家の女の人はあまり来ないね」
 ところどころ、同じように破れた床や天井があり、動物の糞と思しきものもところどころに落ちている。地域が紡いできた伝統芸能の拠点でもある自宅を、残すべきか、壊すべきか。今野の背中を見ながら、私はその苦悩の日々を思い、破れた天井の穴を見ながら、この家を諦めた日のことを思う。

ちょうな削りの梁

――来年で10年になりますけど、どんな時間でしたか。
「本当、10年というと長いようだけど、いま考えると短いんだよな。すぐ過ぎちゃったような気もするし、うんと長く感じることもある。こうやって来てみると、なんだべ、変わんないんだよな、家は。ただ、壊れていくのは壊れていくんだけど。俺の家は古いから風通しがいいから床が抜けないんだ。いろんな人の家を見てきたけど、新しい家、機密性の高い家は、全部湿っちゃって抜けている。ここも、裏の方は抜けている。日陰になっているのと、湿地で水が涌いているから、昔はそこから湧き水を飲んでいた。いまは井戸掘っているけれど。湿気るのは湿気るんだな」

――取り壊しの時期は決まったんですか。
「5月半ばすぎに『取壊しの相談します』って言われていたけど、コロナでちょっとずれているんじゃねえかな」

――取り壊しを決めるまでには時間がかかったんじゃないですか。
「取り壊しの? 決心するまで? 悩んだけども、どうしようもねえもんな。こうやって置いたってな。ああやって壊れていく一方でしょ。直すといったって、また津島に来られるという保証もないし。このまま、崩れれば自分でやるしかないもんな。みんな決断しているもんな。ハァ」

――近所もみんな決断した。
「ここはね、一つの組があった。いわゆる隣組。ここは15軒ぐらいあったんだけど、俺のところは一番端。(復興再生拠点に)ギリギリ入っちゃったからね。……みんな仕方ねえんじゃねえ、ハァ」

――復興再生拠点は津島と呼べるんですかね。
「全然違うものになるんじゃないですか。俺が知っている津島、いま復興拠点になっているところは、どこに誰が住んでいるか全部知っているけども、それがなくなっちゃうでしょ。全部。風景も全然違うものなるんじゃないですか。田んぼも除染するという話なんだけども、どうなるか。来て農業やる人いるかどうか。それはわかんねえ。復興組合とかできて、除染する田んぼの保全とかはやることになっている。3年間。その後どうすんだという話になってくるでしょ。そうなると我々がわかんない。生きているかどうか。そうすると、若い世代というのは来ないでしょ。うちもないんだし。これから来れるようになったって、何年後かもわからないし。俺の息子だってこれから10年も経つと、俺の年に近くなるし」

 今野には、忘れられない出来事がある。原発事故当時、小学生だった孫が、成人したことをきっかけに、原発事故後、初めて津島を訪れた。帰還困難区域には、原則、未成年者の立ち入りは認められていない。
「うちの孫、当時は5年と3年だったかな。津島を知っていて、前に連れてきたの。いままでは来れなかったけど、二十歳になってから『行きたい、行きたい』って。『お墓参りさ行くのか』って聞かれて、連れてきて。お墓参りして、来たんだよ。でもな……車から降りなかった。びっくりしちゃったんじゃないか。当時は5年生で、避難して、ここに来たのは二十歳のとき。車から降りない。見たくなかったんだな。『帰る』って」 
 帰還困難区域のゲートから、今野の家までは650メートル。車で3分程度の距離である。孫にとってその距離が、長かったのか、短かったのか。私にはわからない。
 高台にある家へと至る上り坂に差し掛かったとき、今野は異変を感じた。かつて団らんを共にした居間で、目線を外に見やりながら続けた。
「あそこから様子違ったんだな。あの坂、上るときに。ハァ。『着いたから降りるべ』って言ったら、『降りない』って。相当ショックだったんだな。全然様子違うもの。俺らはしょっちゅう来ていたからな。だんだん変わっていくのを見ていたけど、うちの孫は最初の頭しかなくて、それからポンとこれだから。そこが大きかったんだな」

――それ以来ここには……。
「来てねえ」
 別の孫も取り壊される前に来たいと言っていたが、新型コロナウイルスがそれを阻んだ。実現できぬまま、家はやがて取り壊されるだろうと今野は話す。

――新しくなった津島に戻る気持ちは。
「本当は戻ってきたいよな。津島の人はみんなそう思っていると思うよ。ただ、戻ってきてどうすんのっていう話になってくる。昔みたいに、戻ってきて同じような形になっているなら、戻ってくると思う。ぽつんと一人戻ってきたって、生活も何もできない。仕事もない。仕方ないというのはみんな思っているから、家を取り壊すっていう話になるんだよ。でも、ここの第一ステージだけ。あとの隣はどうするんだと言う話。隣をやる予定がない。だから津島の人みんな戻ってくるわけにはいかない。ここに通って田んぼ作る人はあるかもしれないけど、作ったからって売れるかという話になる。除染したって、周りの山林なんかはやらないから、何かあれば線量がまた上がるんじゃないかってみんな思っている。ここは、のんびりしていていいよ、本当は。通りかかる人も全部知っていたからな。いやあ……がっかりしちまうな」