81年前のきょう未明、アメリカ軍の爆撃機が焼夷弾で東京の町を焼き尽くしました。都内では犠牲者を追悼する式典が行われましたが、この空襲では避難した防空壕の中で亡くなった人もいました。一体なぜなのでしょうか。

東京・中央区、常盤小学校。廊下にある扉から地下に降りていくと、80畳ほどの空間が。81年前、空襲の避難場所として使われた防空壕です。

1945年3月10日の東京大空襲。1600トン以上の焼夷弾で、街は炎に包まれました。奪われた命はおよそ10万。

当時6歳だった西尾静子さんは、近くの高校の防空壕に避難しました。その中でのことを今も忘れられません。

東京大空襲を経験した西尾静子さん(87)
「(防空壕の扉を)大勢の人がドンドンドン叩く。『ドアを開けてください。中入れてください』叫ぶ声がだんだん悲鳴に変わる」

空襲が収まり扉を開けると、黒焦げの遺体が積み重なっていました。

国は学校だけではなく、一般家庭にも防空壕を作らせました。人の命を守るためのものと思われていた防空壕。しかし、当時の文書には防空壕について、「応急的待避施設」と書かれていました。

東京大空襲・戦災資料センター 小薗崇明さん
「(当時の)防空壕は一時避難場所にすぎなかった。命を守るものとしては作られていない。(空襲の際)防空壕から出てきて、市民は火を消さなければいけなかった」

国民は防空法という法律で逃げることを禁じられ、消火が義務付けられていました。防空壕は消火のために一時待機する場所にすぎなかったのです。国は「焼夷弾は怖くない」「簡易的な防空壕で事足りる」と情報統制しました。

当時8歳だった二瓶治代さんは隣の家族と共用していた防空壕に避難するも、父親から「蒸し焼きになるから外に出ろ」と言われます。

東京大空襲を経験した二瓶治代さん(89)
「先に入っていたお隣のおばさんが私の服を引っ張って、『外に出たら焼け死んじゃうよ。だからここにいな』と言って」

しかし、その手を振りほどき外に避難。空襲後、自宅に戻ると、防空壕はつぶれ、隣の家族は中で亡くなっていました。

東京大空襲を経験した二瓶治代さん(89)
「危険だとわかりながらそういう簡単なものをつくらせた。本当に国民の命を守ることをしなかった。命をすごく軽んじた時代だった。今思うと、非常に国に対して怒りを感じます」