戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。多くの日本兵が命を落としたフィリピン中部のレイテ島では、毎年行われてきた慰霊の訪問が遺族の高齢化で、今年最後となりました。遺族の思いを、名古屋・CBCの友廣南実アナウンサーが取材しました。

友廣南実アナウンサー
「フィリピン・リンガエン湾、昭和17年3月9日。ここでフィリピンが出てきたか」

友廣南実アナウンサー、24歳。戦後80年の今年、祖父の兄が戦死していたことを初めて知りました。

都道府県が管理する旧日本陸軍の個人情報を「軍歴照会」という制度で開示請求したところ、1942年、27歳で召集され、フィリピンへ送られていた事がわかりました。

友廣南実アナウンサー
「死亡時の所属部隊が『歩兵第9連隊』というところだったみたいです。死亡場所はレイテ島ブラウエン飛行場となっています」

静雄さんは、レイテ島のブラウエン飛行場という場所で戦死したとありますが、詳細は記されていません。

友廣南実アナウンサー
「軍歴が詳しくかいてあるこの紙も17年で終わってしまって、それ以降は空欄なんです」

フィリピン中部のレイテ島は太平洋戦争の初めに日本が占領しましたが、ブラウエン飛行場など航空拠点をめぐるアメリカ軍との戦い「レイテ決戦」で、8万人もの日本兵が戦死した場所です。

父がブラウエン飛行場で戦死 大江ヒロミさん
「304名の中隊の名簿を携えて、最後の慰霊に参りました」

毎年慰霊の訪問を行ってきた日本遺族会。しかし、遺族の高齢化で今年が最後です。

福岡県の大江ヒロミさん、87歳。大江さんの父親もブラウエン飛行場の近くで戦死した一人です。

友廣アナは、日本遺族会を通じて大江さんを訪ねました。

父がブラウエン飛行場で戦死 大江ヒロミさん
「私が4~5歳の時に出征し、抱かれた記憶も言葉を交わした記憶もない。『お父さんはレイテ島のブラウエン、レイテ島のブラウエン』。ずっと30年くらい思い続けて…」

友廣南実アナウンサー
「私の大伯父の静雄さんは、歩9連隊というところに所属していたんですけど…」
父がブラウエン飛行場で戦死 大江ヒロミさん
「12月の戦死なら、レイテ島の脊梁山脈って高い山脈が連なっている。この山にいた人たちが、奪回作戦でブラウエンに行って、12月に亡くなったと思う。奪回作戦は何も意味がなかったと書いてあるでしょう」
友廣南実アナウンサー
「守れた命だったかもしれない」

世代を超えて戦争の悲惨さをどう伝えていくのか。戦後80年を迎えた日本の課題です。