戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。山梨県にあった豊村では満州に渡った開拓団が終戦直後に集団自決しました。奇跡的に生存し、中国残留孤児となった女性の心は今も癒えることがありません。悲劇はなぜ起きたのでしょうか。

現在の山梨県南アルプス市にあった豊村。

郷土史研究家 相原千里さん
「満州の豊村分村で亡くなった人たちの慰霊碑」

こちらでは1940年から160人を超える村民が大陸へ渡り、満州開拓団のひとつとして、四道河と呼ばれる場所に入植しました。

大陸での暮らしが軌道に乗り始めたころ、日本本土は…。1945年8月15日、終戦。開拓団にとっては、この終戦が悲劇の始まりでした。

開拓村は現地の武装集団に取り囲まれ、追い詰められた団員らがとった悲痛な選択。それは、防戦用のダイナマイトによる集団自決でした。

郷土史研究家 相原千里さん
「自分たちで死んだように思うけど、そうじゃなくて、殺されたと思う。(Q.誰に殺された?)日本ですね」

石丸美知子さん、当時5歳。当初は死亡したと伝えられていましたが、奇跡的に生存していました。

豊村開拓団の生存者 石丸美知子さん(85)
「部屋に入ると、大人はみんな泣いていた。16歳ぐらいのお兄さんとお姉さんが舞ったり歌ったりして、男の人が何か話した後、爆音がした。たくさんの人の下敷きになって息苦しかった」

このとき、石丸さんの父親は出征中で不在。母親と姉、弟が集団自決で亡くなりました。

その後、石丸さんは中国人の養父母に大切に育てられましたが、終戦から40年近く経った1980年代まで祖国・日本の地を踏むことができませんでした。

豊村開拓団の生存者 石丸美知子さん(85)
「自分の名前、家族のことも分からなかった」

石丸さんは中国残留孤児として1988年に帰国。悲しみは今も癒えることはありません。

豊村開拓団の生存者 石丸美知子さん(85)
「戦争で私の人生は変わってしまった。何の罪もない民間人が犠牲になる。もう戦争はしてはいけない」