未曽有の火山災害となった雲仙・普賢岳の噴火災害で災害対応に奔走した鐘ヶ江さんの半生を振り返ります。

1980年に島原市長に初当選した鐘ヶ江管一さん。雲仙普賢岳がおよそ200年ぶりに噴火を始めたのは市長3期目の時で、土石流が起きるようになると自ら避難所を訪ねて住民を励ましていました。

「こっちは安心じゃけんな、ゆっくり安心してな、休める人は休んでください」

1991年6月3日に43人が犠牲となった大火砕流惨事をうけ、住民の命と生活を守るために苦渋の決断をすることになります。

住民の立ち入りを禁止する「警戒区域」を全国で初めて市街地に設定したのです。

いつ終わるのかわからない火山災害への対応はその後も続きました。

鐘ヶ江菅一島原市長(当時)「ここまで来たら矢でも鉄砲でも持ってこい。そんなんでびくびくしていたら何もできません」

災害の終息を願って伸ばし続けたひげと防災服姿がトレードマークとなった「ひげの市長」

在任中は災害対策や被災者支援、地域の復興に奔走しました。

退任あいさつ「噴火以来この2年間、ひと時も心の休まる間もなく、まさに激動と試練の連続でした」

退任後は全国各地で噴火災害の記憶と教訓を伝え続け、雲仙岳災害記念館の名誉館長もつとめてきました。

そして晩年まで毎年、6月3日の慰霊行事に出席していました。

鐘ヶ江菅一さん(当時92歳)「これだけの犠牲者が出て、ここまで復興してきたので、それを忘れては行けないと思います」