被爆当時16歳だった小幡悦子さんは、爆心地から1、2キロの三菱兵器製作所茂里町工場で仕事中に被爆。
2階の床から宙づりになっていたところを助け出されたが、両足に重傷を負いました。翌日、リヤカーを持って駆け付けた母や姉とともに、自宅へと戻ります。
3か月後、大村海軍病院に入院し、合計で6回、足の手術を受けましたが、膝が曲がらない不自由な生活を戦後も余儀なくされました。
昭和32年からは「被爆者の店」に50歳まで勤め、その後も被災協の仕事を手伝っていました。(1998年撮影)
注目の記事
「本当は命を失う場所ではなかった」津波にのまれた指定避難所…震災を知らない大学生が被災地で辿る“後悔と教訓”の15年

「私たち家族の楽しい思い出はすべて消え、苦しみや悲しみに変わった」娘を事故で失った小学校の元校長が訴える“命の尊さ” 修学旅行の引率中に「美果が交通事故で死んだ」と連絡が【第1話】

【「公立いじめ」との声も】授業料無償化先駆けた大阪のいま…公立高校の約4割が定員割れ『私立有利・公立不利』の状況は“負のスパイラル”生む懸念【教育アドバイザー・清水章弘さん解説】

“ながら運転”小学生男児トラックにはねられ2年経つ今も意識不明•生涯要介護も…適用されない『危険運転』両親訴え「罪が軽すぎるのではないか」

家族が死刑囚になったーー「殺人鬼の家族と呼ばれようとも」 残された両親と弟、過酷な現実の中で今も生き続ける

3・11午後2時46分発車の仙石線『命を救った判断』あの日の記憶胸に“ビーチサッカー”で目指す姿【東日本大震災15年】









