NBC被爆80年シリーズ企画「銘板が伝える8.9」。第11回は、JR浦上駅の場所にあった国鉄浦上駅です。駅の構内には、全裸状態の男女の遺体が散乱していました。

爆心地から約1キロ南。現在のJR浦上駅がある長崎市岩川町には、かつて「国鉄浦上駅」がありました。
三菱の工場群に近く、軍需物資の積み込み駅として重要な役割を果たしていた浦上駅は、原爆によって駅舎は完全につぶれ、ガラス製の燈具類は飴状に溶け、信号機もねじ曲がりました。駅の助役だった山下長一さんは、当時の様子をこう語っています。

国鉄浦上駅・助役だった 山下長一さん:
「浦上駅は…ビシャンコです。ビシャンコになってしもうて…。駅長はちょうど裏の戸口の下敷きなって引っ張り出すにも出せない、家の下敷きですから。貨車が3台くらい入っておりまして、その下にもですね…死んだ人がおりました」

原爆が投下された当日、浦上駅には職員や乗客あわせて約70人がいたと推定されています。20人が即死、45人が後日死亡し、生き残ったのはわずか数人でした。
駅の構内には、民家から爆風で吹き飛ばされてきたと思われる男女の遺体が全裸の状態で散乱、停車していた貨物列車の車内では数頭の馬が死に悪臭を放っていたと、銘板には記録されています。
国鉄浦上駅・助役だった 山下長一さん:
「(駅舎の中からは)10人ばかり死骸が出てきました。それは当時汽車に乗り遅れた人でした。駅舎がビシャンコになってしまったから、逃げられずにそのまま死んだんです。…もう自分もいっそのこと死んだほうがよかったばい…そういう気持ちでした」

絶望の中にあった浦上駅は、わずか2日後の8月11日には列車の運行を再開、けが人の搬送や支援物資の輸送拠点となりました。

現在、JR浦上駅は高架化され、新しい駅舎や駅ビルも誕生。銘板が立つこの地では今も、多くの乗客と駅員が行きかっています。