100年前も今も私たちの食卓に欠かせないコメ、何度も米不足に見舞われました。増産、減反、そして米騒動。コメどころ新潟の“昭和100年”を振り返ります。
BSNに残る一番古いコメの映像は昭和33年のニュース映像です。

【当時のナレーション】
「4年続きの豊作の夢はあえなく崩れ去ったようですが、新米のピストン輸送第1号列車は、予定より10日遅れて、10月11日、羽越線 坂町駅を発車しました」


豊作・不作を繰り返しながらも、この4年後には1人当たりのコメ消費量が年間118キロとピークを迎えます。現在の倍以上です。

給食もパンが主流となり、“米離れ”が加速。国は生産調整=減反に踏み切り、消費量はさらに減っていきます。
そして起きたのが…
「お店に出すと、すぐになくなってしまう」

平成の米騒動です。
冷夏で例年の7割しか収穫できず、店頭からコメが消え、戦後最悪、記録的なコメ不足となりました。


店頭からコメが消えスーパーには電話が殺到しました。さらに…
「コメの市場開放反対!新潟の農業を守れー」


タイ米なども輸入されましたが、外国産米は今ほど理解されておらず、抗議の声も上がりました。

