「震電」飛行する姿「車輪出たまま 迫力はなかった」

技術顧問を務める岡田正弘さんは、10歳の時に「震電」の試験飛行を目撃していました。

渡辺鉄工 岡田正弘 技術顧問「今考えると何か情報が入っていたのかもしれませんね。当時震電と言わずにJ7と言ってました。少し格好が違う飛行機が飛んでるなという程度で迫力はなかったですね。そういうふうに少し高いところでゆっくりですから。車輪も出たままだった」

渡辺鉄工では、戦時中の建物の一部が今も使われていますが、終戦直後にほとんどの資料が処分されたため詳細は伝わっていません。

渡辺鉄工 岡田正弘 技術顧問「製作に関する仕様書、図面がないです。全部『焼却』という命令で。ある一部の大先輩、当時工場にいた方がね『全部焼いた』と。『もう本当あなたたちに申し訳ない。今考えたら』というようなこともおっしゃってました」

「人殺しのね、道具を作っていた」

資料が限られる中で重要な戦争について証言できる人は減り続けています。

九州飛行機に学徒動員され震電を目撃した小出さん。

戦後、自分たちが作った零式水上偵察機も特攻に使われていたと聞かされました。

小出和典さん(96)「一生懸命作った飛行機が自ら進んで爆発させられるという哀れさということと。かつては人殺しのね道具を作っていたわけですけども。いずれにしても戦争はいかんですね」