車いすラグビー日本代表が悲願の金メダルを獲得するなど、メダルラッシュが続いているパリパラリンピックは、9月8日に閉幕する。「障害者スポーツの頂点とされるパラリンピックの歴史や精神には、スポーツという分野にとどまらない奥深いものがある」と話すのは、2021年東京大会で毎日新聞のオリンピック・パラリンピック室長を務めた山本修司さんだ。9月6日に出演したRKBラジオ『立川生志 金サイト』でコメントした。

パラリンピックの「パラ」の語源は?

最初に断っておきたいのですが、確かにパラリンピックは障害者スポーツの最高峰といえるのですが、障害者スポーツを包括しているわけではありません。パラリンピックのほかに障害者の国際大会としては、聴覚障害者の大会であるデフリンピック、それから主に知的障害者を対象とするスペシャルオリンピックスがあります。

一方、パラリンピックには聴覚障害者や知的障害者のカテゴリーはありません。パラリンピック=障害者スポーツではないということは押さえておく必要があります。

これは、パラリンピックの成り立ちに理由があります。パラリンピックの原点は1948年7月、イギリスのロンドン郊外にあるストークマンデビル病院の一角で、16人の車いす選手が参加したアーチェリー大会にあります。

第二次大戦で脊髄を負傷した兵士のリハビリが目的で、パラリンピックが、脊髄損傷などによる下半身麻痺を意味する「パラプレジア」の「パラ」と「オリンピック」を合わせた造語なのもこのためです。

国際オリンピック委員会(IOC)が「パラリンピック」を正式大会名と認めたのは1985年で、それ以前にも遡って使っていますが、すでに脊髄損傷以外の選手も出場していたことから、大会名の意味をギリシャ語で「平行」とか「もう一つの」を意味する「パラ」を使って「もう一つのオリンピック」として再解釈しました。これは豆知識です。

日本のパラリンピックの父は大分県出身の医師

最初のパラリンピックを実現させたのはこの病院のルードウィヒ・グットマン博士で「パラリンピックの父」といわれていますが、日本のパラリンピックの父は、九州の人なんです。

大分県別府市出身の医師・中村裕(なかむら ゆたか)さんは、障害者自立のための施設「太陽の家」を作ったことでも知られています。1964年に東京オリンピックが開かれ、この東京大会が、初めてオリンピックに続いてパラリンピックが開かれた大会となったのですが、これに尽力したのが、中村さんでした。

ここでちょっと、個人的な話も含めて脱線してしまうことをお許しください。太陽の家はオムロンやソニー、三菱商事、ホンダといった企業が出資して、障害者が職業を持って自立する当時としてはかなり画期的な施設なのですが、実は、私の父は毎日新聞の記者で、主に別府で取材活動をしていたときに太陽の家を何度も取材し、中村さんとはとても懇意でした。

父は64年の東京オリンピックで長崎支局から東京に派遣され、陸上競技の取材を担当したので、その面でも話が合ったのだと思います。私はそのとき中学生でしたが、太陽の家のお祭りがある時などに父の取材によくついて行って、お手伝いをしていたので、中村さんと話をしたことがありました。

大分弁で「お前、親父んごと新聞記者になるんか」などと聞かれて、「はあ、そう思うてます」と答えると、「やめとけ。新聞記者やら生活不規則やし、給料もたいしたことねえし、そげな仕事せんで医者になれ」などと言われたものです。

私が毎日新聞でオリンピック・パラリンピック室長を務めるとき、私は事件記者出身でオリンピックの取材をしたこともありませんでしたから「何の縁もない人間がオリパラを担当する」などと言われたものですが、実は結構大きな縁があったわけです。