77年目の終戦の日を迎え、戦争の現実を伝え未来に教訓をつないでいくシリーズです。第二次世界大戦後に、およそ57万人もの日本人が旧ソ連の領内に移送され、過酷な労働を強いられた「シベリア抑留」。20代で抑留を経験し、現在は99歳になった男性の証言です。
◆旧ソ連に連行され抑留生活4年間

佐賀県唐津市に住む、永江領さん(99歳)。シベリア抑留を経験した一人です。永江さんは22歳だった1945年1月、陸軍の兵士として大陸に渡りました。

旧満州の奉天で終戦を迎えた直後、銃を持ったソ連兵に「トウキョウ、ダモイ(帰国)」と声をかけられ、列車に押し込まれた永江さん。故郷に帰れると喜んだのも束の間、降り立ったのは、身も心も凍り付くような荒涼とした大地でした。日本から5000キロ以上離れた現在のカザフスタンで、4年間にわたる「抑留生活」が始まったのです。

永江領さん「(労働は)石炭掘り、他にない。こっちは強制労働させられる立場なもんだから、早く帰してもらいたいという頭があって」
◆今つづる22歳当時の思い

去年制作されたこの冊子に、抑留当時の永江さんの体験が記録されています。
「ラーゲリ(収容所)のバラックで寝起きし、夜になると南京虫やシラミに苛まれながら、疲れ果て、いびきをかいて寝た。与えられる食べ物と言えば、固い黒パンとわずかに塩味がついたスープだけ」

大学でロシア語を学んでいた永江さんは、収容所暮らしや労働の合間に、ソ連兵や、現地の一般市民とも言葉を交わすことがあったといいます。
「『民族は違っても同じ人間』と思うこともあった。だが、そうした人間が国家と国家の戦いに組み入れられると敵意をあらわに、蛮行に及ぶ。そこに『戦争というものの怖さ』を実体験として感じたのだった」
1949年に抑留生活が終わり、永江さんは京都の舞鶴港へ引き揚げました。

「うれしかったですよ、港に着いた時は。日本看護婦会か何か、女性の方が迎えに来た時はほろっとしましたよ」
◆生き延びた「お役目」を果たして
こうした体験を形に残すべきだと永江さんに提案したのは、親族の九鬼泰子さんです。

九鬼泰子さん「(生き延びた)お役目だから、もっと元気でもっと発信してほしいというとその本を作った。残せればいいなと思ってやったことなんです。戦争は絶対にいけないよということですよね、もしそれで感じてもらえればいいですね」
今年1月に白寿となり、帰国して73年目の夏を迎えた永江さん。世界で今も戦争が続いている今、冊子に綴った自分の体験を振り返り、改めて「戦争をしてはいけない」という思いを強めてい ます。

永江領さん「戦争をしたりする時代はもう過去の話で、お互いにそういうことはやりませんということでいかんといかんと思いますよ。僕は、戦争はいかんと思う、人殺しだもん」















