東日本大震災から11日で、11年5か月が経ちました。震災の津波で息子を亡くした宮城県石巻市の女性は、あの日の後悔を胸に、「自分と同じ思いはしてほしくない」と市内で語り部活動を続けています。

■語り部の三條すみゑさんは震災を伝える

語り部の三條すみゑさん:
「ここはたくさんの方が亡くなっている。子どもたちだけではなく、地域の人たちもなくなっている。お話しする前に小学校に向けて手を合わせてからお話しする」


8月を迎え、石巻市の気温は連日30度を超えるようになりました。震災遺構・大川小学校でボランティアで語り部の活動を行うのは三條すみゑさん(64)です。
三條さんは震災で当時17歳だった三男の泰寛さんをなくしました。


小学校で、三條さんが語り掛けます。

三條すみゑさん:
「大川小学校は昭和60年に合併し、モダンな素敵な小学校に。今見ても素敵な、モダンな学校。ですが、3月11日、山に避難した人が夕方撮った写真がこれです。この白いのは雪です。そのくらい寒かった」


この日は東京から訪れた家族連れが三條さんの話に真剣に聞き入りました。

三條さんは家族を、大川小学校から2キロほど東側の長面地区に案内しました。ここは、三條さんが、夫と長男と次男、それに亡くなった泰寛さんと家族5人で暮らしていたところです。


語り部の三條すみゑさん:
「ここも108人亡くなっている。これが街並み、半分です」

長面地区にはおよそ500人の暮らしがありました。しかし、震災の津波により景色は一変。災害危険区域に指定され、人が住むことは出来なくなりました。


三條さんは4年前、石巻市内陸部に自宅を再建しました。

自宅での三條すみゑさん:
「きょうも何事もなく無事に過ごせますように、と必ず唱えながら手を合わせてます」


三條さんは、自宅の仏壇で亡くなった泰寛さんに語りかけるのが日課となりました。


三條すみゑさん:
「暴れるとか騒ぐというような子ではなかった。何でも「いいよ」とやってくれる大人しい子だった」


泰寛さんは、高校の卒業式を終えたばかりで学校には行っておらず、あの日、長面地区の家にいたといいます。


外出していた三條さんは揺れが襲った直後、泰寛さんとは電話が通じなかったため、メールでやり取りをしました。