ジープに乗った、笑顔のアメリカ兵。一方、作業を見守る子供たちは、みな不安げな表情を浮かべています。戦後、収容所から戻り、ようやく生活を取り戻し始めた矢先、人々は再び生活の場を奪われました。
本島北部、本部半島の沖合に浮かぶ伊江島。沖縄戦から10年後の1955年3月、300人のアメリカ兵が、島の北西部・真謝区の土地を強制的に接収。住民は非暴力を掲げてアメリカ軍に抵抗しました。

阿波根昌鴻さん(1972年のインタビュー)
「完全武装兵が着剣して現れました。300名余りが」
伊江島土地闘争のリーダー・阿波根昌鴻。当時まだ珍しかったカメラを手に入れ、アメリカ軍の行動や住民の被害を記録しました。
阿波根昌鴻資料調査会 小屋敷琢己 琉球大学教授
「米軍は嘘もつくし証拠を残さないと闘えない。だからアメリカ軍と闘うための武器として撮っていた」
なぜ、アメリカ軍は新たに土地を接収したのか。
琉球大学 我部政明 名誉教授
「小型化した核兵器を使う方針がアイゼンハワー政権の世界的な戦略だった」
1953年、朝鮮戦争の休戦に伴い、アメリカは軍事戦略を転換。小型の核兵器を運用する空軍を重視し、その訓練のため伊江島の演習場を拡張しました。

当時のアメリカ軍の記録に、こう記されています。「“侵略”の決行日は3月11日に決まった」アメリカ軍は、自らの行為を「侵略」と呼びました。
その「侵略」の実態を物語る資料が、新たに見つかりました。
『射爆場拡張に伴う13家族の移転』と題された18枚の写真には
アメリカ軍による土地接収の様子が記録されています。

破壊されたかやぶきの家。重機が土を掘り起こしながら進んでいます。銃剣を構えたアメリカ兵と、手足を抱えられ運ばれる裸足の男性。土地と家屋を奪われ、なすすべのない住民たち。アメリカ軍は金網を張り、生活の場を演習場へと作りかえました。
平安山良有さん(91)
「これ石川清憲さんかな」
アメリカ軍に土地を奪われた平安山良有さん(91)。当時の写真を初めて見たといいます。
平安山良有さん(91)
「これはあれじゃないですかな、『丁寧に壊した』という畜舎。ブルドーザーで敷きならしたり、焼いたりしたんですけど、本当は。(米軍が)『そうじゃないよ、丁寧に壊してるんだよ』と宣伝するために」
アメリカ軍はトレーラーで茅葺の小屋を運び込み、「住民に配慮して丁寧に作業した」という証拠にするためにカメラで撮影したといいます。

平安山良有さん(91)
「だから私たちは、本当のことを訴えるために、乞食行進に移っていったわけです」
「七月二十一日 乞食開始」住民たちが乞食行進と呼んだ行動。カンパを募りながら沖縄本島をくまなく歩き、伊江島の窮状を訴えました。訴えは、やがて沖縄中に広がった軍用地をめぐる闘い「島ぐるみ闘争」へと連なっていきます。
