なぜハンセン病だけが差別されたのか

邑久光明園

――特効薬「プロミン」が戦後に登場した時は、希望の光だったのではないでしょうか。

(屋会長)
「最初は、アメリカの薬ということで手を挙げる人は少なかったんです。でも『自分はどうなってもいいから』と試した人がすっかり良くなったのを見て、皆が求めるようになりました。昭和23年には『プロミン獲得闘争』という運動が起き、国が5000万円ほど出して薬を確保しましたが、それでも足りませんでした」

「詩人 永瀬清子とハンセン病文学の読書室」(岡山市北区表町)で開催

――そもそも、なぜハンセン病患者だけが、これほどまでに厳しい差別と偏見にさらされてきたのでしょうか。

(屋会長)
「それは、国が感染症に関する法律を作って縛ったのがハンセン病だけだからです。明治40年に法律ができて、当初は街をさまよう患者を収容するためでした。

しかし昭和6年、内務省(当時)は在宅療養を認めず、家にいる患者も警察と保健所が強制的に収容する『絶対隔離』『癩(らい)絶滅政策』を打ち出したのです。さらに昭和28年にも法律ができ、この3本の法律で縛られた感染症はハンセン病だけです」

――国の政策が差別を助長した、と。

(屋会長)
「国が間違った情報を流した。国民を騙したということです。『怖い伝染病だ』『遺伝する』と嘘を教え、人々から忌み嫌われるように仕向けたのです。

昔は薬がなく、顔や手足が変形する人もいたため、見た目で嫌われた面もありますが、それらが重なって、今なお厳しい偏見と差別が残っています。何十年も連れ添った夫婦が、病気のことを打ち明けたら離婚に至ったという話も現実にあります」