解剖室の鍵のかかった部屋には胎児の標本があった
「瀬戸内訴訟で目指したものとして、療養所の状況を裁判官にちゃんと見せようと、現地検証を必ずやろうということで、それを、邑久光明園と長島愛生園でやるということで企画し、検証の申し立てをしていくということをします。
検証には、50人ぐらいの弁護団が来るということになりました。見てもらう場所も結構多くあるということだったので、タイムスケジュールを作成して、それぞれの人がどこを担当して、どの時間からどの時間まではこれをやろうと計画しました。
その準備をしていたところ、古いお寺のような形をした、人が集まって祈るような場所と、それから裏側に解剖室がついた建物(解剖霊安棟)を壊すという話がありました。
検証直前で壊すのはちょっとどうかということで、その前に証拠保全をしましょうということで、証拠保全の申し立てをして、これも通してくれました。
当時の裁判官が、証拠保全の手続きで現地に来るということになりました。そこで、解剖霊安堂の解剖室の中に、扉を開けたら、正面に解剖する台があるんですけども、右手側に鍵が閉まった部屋がありまして。その部屋は、なかなか事前に見せてもらえてなかった」
「鍵を開けてもらったら、そこに解剖した時の臓器がいっぱい並んでいて、その中に胎児の標本が複数あるということが分かりました。
本当に、確か検証の2日前だったか1日前だったかぐらいだったので、これは大変だ。よくよく見ると紙が貼ってあって、お名前が書いてあるんですよね。
名前が書いてある状態で撮影するわけにはいかないということもあって、付箋を貼って名前だけはとりあえず消そうと。
名前が見えないようにして、裁判所の手続きに入ろうということで、当日、ちょっと早めに弁護団が来て作業しました」
「胎児標本がある」と聞いてはいたが…
「胎児標本があるという話は、実は入所者から言葉では聞いていたのですが、現時点でどこにあるのか、どのぐらいあるのかということは全然分かっていなかった。
それがあったということで証拠保全が行われました。その時の映像は、まだ残っていまして、衝撃的な状態だと思います。
この証拠保全では、胎児標本はもちろんすごく重要な要素ではあったんですけども、その霊安堂といわれる解剖室の方じゃない方の部屋では、何人もの方が自死をされていると。
座り込む形でロープをかけて首を吊ってというような話を入所者がしてくださってですね。非常に、印象に残る手続きでした」
「その後、長島愛生園と邑久光明園について、現地検証が行われまして、裁判長もしっかり歩いてしっかり見て帰っていました。その辺から訴訟指揮もそれまでとは違う感じになったように私は感じておりました。
訴訟するうちに2001年の5月11日に熊本地裁で判決が出るという期日が指定されるということになります」
「裁判的には課題がありまして、長期間にわたって被害を受けているのに、実際にらい予防法の制定から考えると相当な年数が経ってるということがあります。
除斥期間というんですけど、20年以上経つともう裁判できませんよというのが当時の民法にあって、そこを理由にダメだという風に考えられるんじゃないかという懸念はゼロではなかったですね。そういう中で判決を迎えるということがある」
「判決を迎えた後どうするのか。判決で勝訴して、勝訴した後に裁判に参加をしていない方々も含めてそこをサポートしていこうと。
立法によって解決することになるので、国会をローラーして国会議員も1人1人回って、その結果としてハンセン病問題の最終解決を進める国会議員懇談会が作られることになります。
ハンセン病議連懇談会、これ2つ目の懇談会ですね。2つ懇談会があるんですね。前の懇談会(ハンセン病問題対策懇談会)は、それ以前からあって、少しずつ改善していこうみたいな形で、やってきてた議員懇談会だったんですけど2つの議懇ができることになります」