◆「石垣島事件」は戦犯法廷開始以来の大量公判

法廷での藤中松雄


法廷の奥の列、左から三番目に座っている坊主頭で涼しげな目をした青年。写真が撮影されたのは、1947年12月3日。松雄が亡くなった時にまだ3歳だった孝幸さんは父の顔がわからなかったが、5歳年上の兄、孝一さんに写真をみせると、すぐに「これがおやじ」と指さしたという。松雄は当時26歳。スガモプリズンに収監されて5ヶ月後に裁判が始まって間もないころだ。石垣島事件で殺害された米兵は3人。それに対して米軍が横浜軍事法廷で裁くべく起訴した被告は46人だった。毎日新聞は小さな記事だが、1947年11月26日に「戦犯法廷開始以来の大量公判が開廷」と報じている。 

◆名前がずれたキャプション「藤中さんの名前はない」

孝幸さんに問い合わせをしたのは、千葉県習志野市にある日本大学生産工学部の高澤弘明さん(現准教授、当時は専任講師)。高澤さんは、アメリカの国立公文書館で戦犯関係の1660枚の写真を入手していた。公文書館でひたすら写真をカメラ撮影し、帰国後写真データを見ながら、少しずつ分析作業を進めているという。石垣島事件に関する写真は35枚ほどあり、写真の裏に貼られたキャプションを1枚1枚読み取ってリスト化したそうだ。

日本大学生産工学部・高澤弘明さん「キャプションには被撮影者の名前が書いてあるんですけど、石垣島事件の場合は全部名前がずれているんです。だからどうしても誰が写っているか特定できなくて、関係者とご遺族しかわからない状態だったんですね」