病気を押して執筆した田嶋教誨師
幕田の母トメが田嶋教誨師と話をした2カ月前、トメ宛に届いた現金書留の封筒が自宅に残されていた。1953年10月12日の日付で、差出人は「東京都豊島区巣鴨拘置所 冬至堅太郎」と書かれている。田嶋師が「わがいのち果てる日に」で得た印税を遺族に送金するという内容の手紙が入っていた。
<トメに届いた現金封筒に入っていた手紙 1953年10月12日>
秋冷の候、皆様にはお変わりなくお過しのことと存じます。さて過日出版されました「わが命果てる日に」に関し、私は田嶋隆純先生より事務一切を委任されております。この度ようやくにして出版元講談社より印税七万二百四十八円が届きまして、皆様にご送金申し上げることになりましたが、これにつきご承諾を頂きたく存じます。
実は田嶋先生は印税は全部、掲載した三十四名のご遺族様に分けるようにと申しておられますが、これが刊行されますまでにかなりの経費がかかったばかりでなく、関係諸方面に献本のため、この書を自ら購入され、更にこの印税につき所得税がかかる等、今後も相当の出費を見込まねばなりません。先生は巣鴨教誨師として着任以来四年半、全然、無報酬にて戦犯問題に努力して来られました上、病身を押して書かれましたこの書のために却って金銭的負担までかけることは、私どもとしまして誠に申し訳ない気が致し、これはまた、皆様もご同様のことと想像致します。
田嶋教誨師は、戦犯たちの助命嘆願運動に熱心に取り組み、「巣鴨の父」と慕われた。しかし、過労がたたって1951年10月中旬、スガモプリズン内で脳軟化症を発症して倒れ、入院した。後遺症が残っていたが、発症からわずか二カ月あまりで教誨師の任務に復帰したという。その後も病身を押して活動を続ける中で、本を執筆していた。







