火葬場長が”主役”になった記事

久保山斎場にある供養塔

<毎日新聞 1953年12月10日朝刊>
本年十月、飛田場長は遺家族らに遺骨を渡してもよい時期ではないかと考え、復員局に連絡した。同局法務調査課井上課長らが現場に赴いて火葬場の火葬死体数とその年月日と米軍から通報のあった戦犯者の火葬年月日によって調べたところ、ぴったりと一致したので、五十三名の遺骨と判明したものである。
全員一緒に埋葬されてあるためどれがだれの遺骨であるか判らないので、埋葬されてある遺骨と残り灰を五十三柱に分け、遺家族の人々に渡されることになっている。いままでにも遺族たちは肉親たちが同火葬場で処理されたことをいつ、どこからともなくもれ聞き『せめて久保山の土くれ一塊でも供養のためにわけてほしい』と訪ねる人もあったという。同火葬場では遺骨が遺族の懐に帰ったあとも残灰の一部を残し、永久に祭りたい意向をもっている。いま供養塔は朝夕職員たちの手で掃き清められ美しい花や線香が絶えることなくささげられている。
飛田火葬場長談:供養塔は久保山十三寺の住職をわずらわして年々慰霊もした。遺骨残灰の処置を完全にしていたことは日本人として当然なつとめです。


当時、復員局法務調査課長だった井上忠男は、この報道から22年後の1975年、遺骨が見つかった経緯について「人と日本」(行政通信社)に「巣鴨戦犯遺骨の埋葬秘話」と題してまとめている。そこには遺骨発見の端緒となったのは、スガモプリズンに在所していた冬至堅太郎からの情報であると書いていて、冬至はその記事を自分のファイルに残し、該当する部分にはマーカーをひいていた。冬至は戦犯たちの遺書700篇あまりをまとめた「世紀の遺書」の編纂者の一人で、新聞報道では、飛田場長が復員局に連絡したことになっていたので、事実と違うことに対し、思うところがあったのだろう。