戦時中、日本に墜落した米軍機の搭乗員を捕らえて処刑したことは、戦後、「BC級戦犯」として米軍によって裁かれることになった。ほとんどが捕虜虐待を問われ、スガモプリズンに収容されて死刑になったのは53人。その遺体は、横浜市の久保山火葬場で荼毘にふされた。遺骨は米軍が箱に入れて持ち去ったが、火葬場長らは残された骨灰を、火葬場で出た残灰を入れる穴に埋めていた。その存在を確認した復員局法務調査課長の井上忠男は、各所を調整の上、横浜市に許可をとり、ついに残骨灰を取り出すに至った。終戦から8年が経った1953年12月14日のことだったー。
新聞掲載「53名の遺骨判る」
スガモプリズン最後の処刑で命を絶たれた山形市出身の幕田稔大尉。31歳の息子を奪われた母トメは、自宅に多くの資料を残していた。戦犯関係の記事が載った新聞の束の中に、1953年12月10日の毎日新聞朝刊があった。遺骨が取り出される4日前、「BC級処刑戦犯 五十三名の遺骨判る」のタイトルで記事が掲載されていた。
<毎日新聞 1953年12月10日朝刊>
「BC級処刑戦犯五十三名の遺骨判る 久保山(横浜)で火葬に ひそかに供養塔も建立」
BC級戦犯として処刑された岡田資中将ら五十三名の遺体は一体どこで処理され、遺骨がどうなってしまったのか、いままでだれにも知られなかった。ところがこのほどこの五十三名は二十三年十月から二十五年四月までに横浜市の久保山火葬場で火葬され米軍が取り残した戦犯者の遺骨が同火葬場長飛田美善氏(六〇)によってひそかに火葬場の一ぐうに埋葬されたうえ、供養塔さえ建てられていることが判った。戦争受刑者世話会では十四日これを発掘し、十五日午後一時から東京文京区護国寺で戦犯の処刑に立会った花山信勝、田嶋隆純同教誨師を導師として盛大な慰霊祭を行い、遺家族たちに引渡すことになった。
原文では岡田資陸軍中将が「海軍中将」になっているという間違いがあったが、この記事からは、BC級戦犯53人のうち当時いちばん有名であったのが岡田中将であることがわかる。実際には遺骨の発掘は復員局が主導して行い、戦争受刑者世話会は慰霊祭を取り仕切った。







