1950年4月7日、スガモプリズン最後の処刑で命を奪われた藤中松雄は、二人の幼い息子たちへ遺書を残した。「父は何故死んでいかねばならないか。そうした結果をもたらした原因はいまいましい戦争なのです」海軍一等兵曹だった松雄は、上官の命令に従って米兵を銃剣で刺し、戦後、BC級戦犯として米軍によって裁かれた。敗戦から5年、日本が戦後復興していく中で戦争の責任を個人に問われ、絞首台を上った青年が残した言葉は、「戦争絶対反対」だったー。
可愛い二人の息子たちへ
松雄は生涯最後の朝を迎え、婿入り先の妻の両親宛て、続いて妻ミツコ宛の遺書を書いたあと、次は当時8歳の長男・孝一と、3歳の次男・孝幸宛に遺書を書き始めた。長男は松雄が20歳のとき、召集前に生まれた子で、次男は終戦後、復員してから授かった子だ。松雄は次男が生まれて半年後に、スガモプリズンに収監されている。
<藤中松雄の遺書 二人の息子へ 1950年4月6日>
遺書
可愛い孝一、孝幸さん
今、父の前には「可愛い孝一、孝幸様へ、その下の方に父、四月六日午前十一時三十分頃」と書いた紙がありその上にリンゴが一つのせてあります。その意味は母ちゃんへの遺書に書きましたから書きません。
松雄は前日、教誨師から食事へのリクエストを聞かれ、「子供たちに父として最後の愛情を注ぐ一片にでもなれば」と、果物を頼んだ。それに応じて松雄の部屋に届けられたリンゴ一個をながめつつ、息子たちへの遺書を書いている。







