◆深夜に遺体を掘り起こし焼却

石垣島事件の法廷 前列左端が井上乙彦大佐 その隣が井上勝太郎副長(米国立公文書館所蔵)

その晩、午後10時を回ってから、松村は榎本中尉から作業員10名ほどを手配してくれと頼まれた。しかし、もうみんな寝ているので、明日の朝一番で割り当てると返事をしたという。翌日、ある少尉から昨夜のうちに捕虜の遺体を掘り起こして焼却し、早朝船を出して石垣島のはるか沖合に捨てたと聞かされたそうだ。

米兵の遺体を燃やした隠蔽工作については、上坂冬子著「昭和史三部作 巣鴨プリズン13号鉄扉」(中央公論社 1995年)にも、「敗戦後に指揮官は、深夜、極秘裡に死体を掘り返すことを命じ、薪と油を使って朝までかかって火葬した上で、遺骨を西表島北方三千メートルの海中に投げ入れた」という記述がある。

◆火葬の状況についての陳述書

米兵たちが処刑された現場(国立公文書館所蔵)

国立公文書館の石垣島事件のファイルの中に、米兵の遺体を火葬したことについての陳述書があった。書いたのは、事件当時23歳、第一迫撃砲隊長だった椋本進平少尉だ。東京都の出身で1943年9月に専修大学を繰り上げ卒業して、徴兵された。法廷写真にうつる姿は小柄な印象だった。