◆見に行くつもりが現場に着くと

処刑現場近くの松(石垣島)

<「石垣島事件」の戦犯となって 前内原武>
私たちが兵舎で寝ていると桑野兵曹長の「志願兵はみんな起きろ」という大きな声が聞こえたので、私は何かあるんだなと思って起きると彼らは酒を飲んでおり、「捕虜を処刑するから我と思わん者はついて来い」と言われました。私は、最初それを見に行く積もりで二、三十名余の人たちに混じって本部へ急いで行ったところ、本門前にトラックが止まっており、その上には捕虜を囲むようにして兵隊たちが十数名乗ってちょうど出発するところでした。結局、私たちも便乗させられたかっこうで行ったのが処刑場だったのです。


警備隊本部から南東約六百メートル位離れた照空隊付近の処刑現場に着いた時には、すでに二人は幕田大尉と田口少尉によって斬首されていた。これから三人目の捕虜処刑が始まるところだった。

◆中尉の指導の下 40数名が刺突

最初に突いた藤中松雄一等兵曹

<「石垣島事件」の戦犯となって 前内原武>
捕虜は、車から引きずりおろされ、目隠しのまま柱にくくりつけられると、藤中兵曹が銃の先に着剣して、約五メートル位の間隔から一突きに刺したあと、七、八名が続いて突きました。このとき、榎本中尉が「このように突け」と指導していたことははっきり覚えています。約四十数名でひととおりの刺突が終わると、私たちは兵舎に戻りました。


前内原は、三人目の捕虜を刺突した「約四十数名」のうちの一人として、敗戦後、戦犯に問われることになった。

◆警察官のジープで連行された

巣鴨版画集より スガモプリズン本館

戦後、石垣島で父と一緒に農業をして生活していた前内原は、1947年の盆を過ぎたころ、畑仕事を終えて家へ帰ってくると、警察官がジープに乗ってきて、警察署へ連行された。前内原やその家族にとっては「思わぬできごと」だった。母は驚いて、警察官に何のことか色々尋ねたという。

<「石垣島事件」の戦犯となって 前内原武>
何のことかわからないまま留置場で一晩明かすと翌日は、大城英吉や小浜正昌、それにアメリカ人の通訳官も見えていました。その日、私は米軍人に捕虜を処刑した現場を案内するように言われておりましたが、その直前になって叔父の面会がありましたので、私に代って大城英吉が案内役を務めさせられました。大城は米軍人から捕虜を処刑した現場に関して、いろいろ聞かれたようでした。それから私たち三名はアメリカの白い船に乗せられ、小さな部屋にとじこめられたかっこうで、石垣から離れました。


前内原ら3人は沖縄本島到着後、米軍の留置場にひとりずつ入れられた。留置場の窓越しに大城が前内原の方へ顔を出して、「俺らはクビだ」とジェスチャーで合図しているのが見えたという。嘉手納飛行場から大型輸送機で移送され、スガモプリズンに収容された。