「学問は社会に貢献しなければいけない。」亡くなった太田さんはそういう信念をもって普賢岳災害と向き合ってきました。そして普賢岳とのかかわりも運命的なものでした。今から26年前噴火を終えた普賢岳に登った時の太田一也さんです。太田さんにとって雲仙普賢岳は不思議な運命で結ばれた山でもありました。

(太田さん)「4年ぶりに登りますけどね、その頃は木がこの辺ほとんど枯れていましたけれどもこうしてみると緑が回復してるの見るとね。やっぱり耐えて耐え抜いたのもあったんだなと。」

雲仙普賢岳の噴火災害。1991年6月3日には43人の犠牲者を出した大火砕流惨事が起きます。このころ九州大学の観測所所長として災害対策に当たっていた太田さんの発言は普賢岳防災の根拠となっていました。太田さんが危険と言えば危険、安全と言えば安全と認められる状況。一人の学者に大きな責任がかかっていました。そうした中で、太田さんが信念としていたのは「学問は社会に貢献しなければいけない」という考えでした。

(太田さん 98年取材)「私はここの出身ですし、避難している人の中には知っている人もいますしね。とにかく仲間を何とかしなきゃいけないという思が強かったですね。」
普賢岳のホームドクターと呼ばれた太田さんですが、元々は炭鉱マンでした。大学卒業後、福岡の炭坑に入社しましたが炭坑が閉山し、新しい仕事として火山学の道を選びます。赴任先は島原に開設されたばかりの九州大学の観測所。そして、そこで未曾有の災害と向き合うことになったのです。噴火をきっかけに8年間で行った上空観測は900回。撮影した写真は5万枚に上りました。

(太田さん)「散々、我々はですね、被害を受けましたから、今からこれですね、それ以上にですね、火山の恵みというものを我々は受けるようにしなきゃいけない。そのための努力もしなければなりませんけどね。同時に、こういう山ができる過程ではいろんな災害が起きるんだということをよく後世に伝えていかなきゃいけない。それで、火山との共生をどうしていくか、次の子孫にですね、言い伝えていかなきゃいけないんじゃないかと思いますね。」








