■憎かった米軍捕虜 操縦席の“あるもの”で感情に変化
(高木敏行さん)
「飛行機は砂地に突っ込んだままだった。友達が竹で飛行機をたたいた。操縦席を見てみたら、家族写真があった。あれにはびっくりした」
それまで「敵」という感情しかなかったアメリカ兵に対し、「同じ人間なのだ」と気づかされた瞬間でした。
(高木敏行さん)
「やっぱり家族がいるんだな。家族を思って戦っているのだなと」
その後、感情の変化があったと振り返ります。

(高木敏行さん)
「当初は憎かった。この連中がこの辺を空襲したのだなと。でも家族がいて、敵国に不時着したアメリカ人が殺されなければいいなと思った」
当時、日本は捕虜の扱いに関する国際条約に同意せず「準用」するとしながら、国際法を軽視した虐待などが行われたため、戦後、軍事裁判で訴追される要因となりましたが、ディクソン中尉は神奈川県の捕虜収容所へ送られ、終戦後、アメリカへ帰国したことが分かっています。
ディクソン中尉を連行したのが、隣に写る秋山政次郎曹長です。


(秋山信義さん)
「小さな写真です。川辺郡万世町 米国人捕虜 捕獲直後と書いてあります。親父の字です」
秋山信義さん(77)、秋山曹長の長男です。秋山曹長は当時、万世飛行場で、特攻隊員の遺品整理などにあたっていました。「父は複雑な思いだっただろう」と推測します。
(秋山信義さん)
「若者が命を捧げて敵艦に突っ込む特攻隊の遺品を親元に届ける任務についていながら、捕虜をとらえたのは複雑な気持ちだっただろう」


秋山曹長は、1999年に85歳で亡くなりました。生前、当時の様子を子どもたちに語ることがありました。