鹿児島県内で被爆者健康手帳を持つ被爆者は、ことし3月時点で410人います。原爆投下から77年となる中で、被爆者の相談に乗り、平和運動を続けてきた被爆者団体の活動は、会員の高齢化により、岐路に立たされています。

(大山正一さん)
「見てさえもらえればね。平面ではあるけれど。もちろん被爆者の方々は、こんなもんじゃないっておっしゃるけど」

県内の被爆者らでつくる「県原爆被爆者協議会」で事務局長を務めている大山正一さん(65)です。鹿児島市が毎年開く原爆の悲惨さを伝えるパネル展に写真を提供するなどの協議会の活動で中心的な役割を担っていますが、大山さん自身は被爆者ではなく、長崎で被爆した父親を持つ、いわゆる「被爆2世」です。

被爆者の高齢化が進む中で、2世が被爆者団体の活動の中心を担うようになっています。6月下旬に開かれた平和について考える集まりに大山さんの姿がありました。

(大山さん)
「核兵器は作ったのも人間だし、使うのも人間。だから無くすのも人間の仕事。だからどうやったら無くせるのか」

協議会に講演の依頼があれば、以前は会員の被爆者が学校などに出向いていましたが、新型コロナの感染拡大もあり、いまは大山さんが対応しています。しかし、その大山さんも家庭の事情で活動が思うようにできなくなってきています。

鹿児島市鴨池にある協議会の事務所です。被爆当時の詳しい状況を記した貴重な資料も残されています。

(大山さん)
「(被爆者健康)手帳を申請するのに、証明書や自分の(体験)を付けて提出する。でもこれは手記、体験記でもあるんですよね」

協議会は1964年8月に発足。一時は離島を含め県内に16の支部があり、会員も千人を超えていましたが、いまは支部の活動はほとんどなく、会員もおよそ170人に減りました。県から被爆者の健康相談事業が委託されていますが、今はその電話が鳴ることはほとんどなくなりました。

会員が減る中で費用の負担も大きく、鹿児島市の事務所は閉鎖が検討されています。一時は会の解散まで検討されましたが、被爆者である会長が待ったをかけたといいます。

(大山さん)
「もう(会を)閉めようか、という状況まであった中で、会長が(会存続の)声を出してくれた。会があること自体が大事なんじゃないか」


7月中旬、会の幹部4人が事務所に集まり、協議会の今後について話し合いました。協議会の会長で被爆者の西上床キヨ子さん(77)です。会を存続させるため、事務所を伊佐市にある自宅に移すことを提案しています。

(西上床さん)「事務所がうちになったとして、活動はできるの?」

(大山さん)「結局そこが一番問題なんですよ。全部(鹿児島市の方に話が)来てしまう」

(被爆2世の男性)「会長は伊佐市だから、そのたびには来られない。だからこちらが動けば、実務的なことは(私たちが)行くという気持ちはある」


伊佐市にある西上床さんの自宅です。

(西上床さん)
「直爆(直接被爆)です。生後6か月で(爆心地から)4.2キロで被爆した。母と昼寝をしていたらしい。覚えていない、もちろんね」

被爆当時の記憶はなく、ほかの被爆者のように目にしたことを生々しく話せないと考えてきたため、これまで被爆体験を積極的には語ってきませんでした。ところが、体験を語れる被爆者が少なくなる中で、心境に変化が出てきたといいます。

(西上床さん)
「やれることは小さなことでも始めていかないと。いまさらだけど。被爆者がいなくなっている。それで原爆って何っていう若い人もいる」


今月、西上床さんは伊佐市が開いた研修会の会場で、原爆のパネル展示の設営を手伝っていました。西上床さんが口にしたのは、原爆を風化させてはならないとの思いです。

(西上床さん)
「鹿児島はまだ(会員が)170人いるのに、辞めようでいいのかしらと。ここに事務所を構えながら、何かできることがあるか、わからないけれど、原爆というテーマだけは風化させてはいけない。そのためには、被爆者がいなくなっても一般市民の人たちを巻き込んで、何とかできないかと思っている」

原爆投下から77年が経つ中で、高齢化が進む被爆者をどのように支え、その記憶を受け継いでいくのか、被爆者団体は岐路を迎える中で、そのあり方を探り続けています。