名古屋城は空襲の対象ではなかった?
名古屋空襲を計画した当時のアメリカ軍の作戦文書が残っています。
3月に市内中心部の「ゾーン1」。5月に名古屋市北部と南部の「ゾーン2」を攻撃し、市内をくまなく焼き尽くすという作戦でした。
ところが中心部には白い空白地帯があります。名古屋城の場所と重なります。
本来の攻撃対象から外されていた名古屋城。大規模火災を狙ったアメリカ軍にとって爆撃しても周囲に燃え広がらない名古屋城は、空襲の対象でなかったとも考えられています。
(東海高校・西形久司教諭)
「狙うはずのなかった名古屋城がなぜ焼けたのか?これは昼間の空襲であることが大きく関係していると思う」
5月14日の空襲の結果を記したアメリカ軍の報告書には、この空襲で撃墜されたB29は11機。66機がダメージを受けたと記されています。

(東海高校 西形久司教諭)
「昼間の空襲だったために、名古屋の上空に現れた米軍に対して、地上から或いは日本軍機から激しい抵抗があった」
「したがって早く爆弾を落として自由になりたい。予定よりかなり手前、つまりは名古屋城の近辺に、早い段階で焼夷弾を投下したのではないか」

「名古屋城はもうない。栄の方まで丸見えだった」
名古屋市名東区に住む長谷川典子さん88歳。当時17歳だった長谷川さんは名古屋城の西側に住んでいて、あの日の空襲が鮮明に焼き付いていると話します。

(名古屋空襲を体験した長谷川典子さん)
「これだけは忘れることはできませんね。あんな死に物狂いのことですから。どんどんどんと防空壕の上に焼夷弾が落ちる音がしたんです。えらいことになった。飛行機の音が聞こえなくなったから、もういいかもしれないと(防空壕の)ふたを開けましたら、もう辺り一面火の海です。焼夷弾があちこちにいっぱいボーボーと火の手が上がっていた」

燃え盛る炎の中、典子さんは道端にあった防火用水の水を被り、ずぶ濡れになりながら火のない方へと無我夢中で逃げました。その後、防空壕に逃げ込んで助かりました。
(名古屋空襲を体験した長谷川典子さん)
「もうその時は何もありません。今までいつも見た名古屋城はもうない。栄の方まで丸見えだったんです。」

空襲で石垣だけになった名古屋城は、戦後復興のシンボルとして生まれ変わり、名古屋駅にも高層ビルが林立しました。
(名古屋空襲を体験した長谷川典子さん)
「あんな悲しいことは絶対にやっていけないという気持ちですね。もし戦争が始まったらこれはどこへでも行って、やめなさいと行って防ごうと思います」
「70年前にあった戦争というものがどういうものか、今の平和な人たちにもちゃんと頭の中に入れておいてほしいと思いますね」











