終戦から78年。戦争について語ることができる人が年々少なくなっています。これまで報じてきた、戦争の証言を振りかえります。
※2017年5月にCBCテレビで放送した特集の記事です。
名古屋城で「紅蓮な炎」が上がる
72年前の5月14日。国宝・名古屋城が巨大な炎に包まれました。夜に見えますが、写真が撮影されたのは朝8時ごろです。爆撃の黒煙で空は真っ暗でした。

その一部始終を見ていた人がいます。城の真向かいに住む牛田壬子(うしだ・よしこ)さん88歳。当時17歳だった牛田さんは、その日の朝に始まった空襲から逃げようと、城のお堀の中へ飛び込みました。

(名古屋城炎上を目撃した牛田壬子さん)
「あー燃えだした。お城が燃えだした。あーというもんですね。いわゆる紅蓮の炎、赤い炎とまっ黒な煙がわぁーと上がる」

城から火の手が上がった頃、懸命の消火活動が行われていました。炎上から焼失までの経緯を名古屋市が克明に記録した公式文書、「国宝建造物滅失届」の写しが名古屋城総合事務所に保管されています。

「本庁職員数十名、警防団員約30名の応援を得て、ともども消火に極力努めたるも、相次ぐ編隊の来襲、投弾のため、火の勢いますます上り…力遂に及ばず、大部分焼失のやむなきに至り」
(名古屋城総合事務所・小西恒典学芸員)
「陸軍に呼びかけ、本庁にも呼び掛けて、名古屋城を燃やしてはならないということで一生懸命にやったことがここから読み取れます」
名古屋は東京に次ぐ攻撃対象
終戦の3か月前、名古屋北部を狙った5月14日の空襲では、300人規模の市民が犠牲となり、2万を超える家屋が全焼しました。
大戦末期に始まった大都市圏への無差別空襲。航空機産業の拠点だった名古屋はアメリカにとって東京に次ぐ攻撃対象でした。

日本への空襲に使われた「焼夷弾」という爆弾。六角形の筒型爆弾を38本束ねた物が投下され、上空1500メートルで一斉に分散。着弾すると引火性の高い油が炸裂し周囲を焼き尽くします。木造家屋が多い日本を攻撃するため、アメリカ軍が開発した新兵器でした。
(空襲を体験した牛田壬子さん)
「上空で焼夷弾がぱぁーと四方八方に飛んで行くんですよ。下に落ちると、その中に火が付いた布がいっぱい入っているからペタっとくっつく。そしたらすぐ燃える。落ちたら火事。ひとところじゃない」










