ラグビーの聖地、大阪府・東大阪市の「花園ラグビー場」。岐阜県立岐阜工業高等学校ラグビー部の監督・部長として、25年間指導した田中輝夫さん74歳。輝夫さんには人生の心残りは「花園に行けなかったこと」。そのラグビーにかけた思いは、子から孫へと三代にわたってラグビーボールのように受け継がれ挑戦されてきました。
「怖い監督だったな」親子で夢見た聖地・花園

高校時代に、岐阜県立岐阜工業高等学校(以下、岐阜工業)のラグビー部だった田中輝夫さん(74歳)。当時、全国大会出場をかけた大一番で負けてしまい、ラグビーの聖地・花園ラグビー場(以下、花園)への切符を逃した思い出があります。

(岐阜工業高校ラグビー部 前監督・田中輝夫さん)
「僕らもう完全に勝てると思ってましたもん。僕たちの上の代も下の代も(花園へ)行っているんですけど、3対6で負けて。あの時、初めて泣いたような気がします。絶対100%花園へ行けると思っていました」

現在の岐阜工業ラグビー部の監督は、徳重正教諭(50歳)。高校時代に輝夫さんに指導を受けた生徒です。徳重教諭が指導するラグビーの練習中、輝夫さんの息子・田中友洋さん(50歳)がやって来ました。友洋さんと徳重教諭は高校時代、共に全国の舞台「花園」を目指した同級生です。

(息子・田中友洋さん)
「高校の3年間は、家でしゃべったことがないくらい、先生としか思っていなかった。本当に手が出る感じの怖い監督だったなぁという思い出しかない」

友洋さんと徳重先生が3年生の時、岐阜県大会優勝は間違いなしとの下馬評。しかし、ライバル・関市立関商工高等学校(以下、関商工)に1点差で敗北。残念ながら友洋さんもまた、花園出場がかないませんでした。
悔しい思い息子からまた息子へ託される「花園へ行きたい」

輝夫さんに24年前、「侑輝」という初孫ができました。
(岐阜工業高校ラグビー部 前監督・田中輝夫さん)
「(名前に)輝と書くと聞いて…『俺の字じゃん』と思った。これはラグビーやれるかもわからんぞと思って、むちゃくちゃうれしかった」
輝夫さんの息子から、そのまた息子に花園への思いは託されました。

2016年、輝夫さんの孫で長男・田中侑輝さんは、岐阜工業ラグビー部の3年生になりました。侑輝さんは背番号9から15までのバックスのひとり、「センター」と呼ばれるポジションです。体を張って守り、攻撃ではチームの仕掛け役としてトライが求められています。
2016年岐阜県大会。準決勝で、侑輝さんは2つのトライを決め、岐阜工業は決勝戦へコマを進めました。次の相手は、長年のライバルである関商工です。

岐阜県大会の決勝は、2016年までの50年間で両校の対決が実に40回。岐阜工業の11勝29敗です。近年は、代表の座を関商工に明け渡している状況なので、越えなければならない牙城なのです。
「僕が連れて行ってあげたい」孫の決意

一つ屋根の下、田中家は7人家族。おじいちゃん夫婦と、息子家族の2世帯です。
孫は侑輝さんの下に、さらに弟が2人。幼い時から弟たちも楕円のボールを追いかけ、いつの日かラグビーの聖地「花園」は一家で目指すものになりました。
(祖父・田中輝夫さん)
「自分の投影というか、自分があそこでやれなかったことを孫がやっているのは、夢みたいなもの」
(孫 長男・田中侑輝さん)
「悔しい思いを僕がリベンジして(花園に)連れて行ってあげたいです」

迎えた岐阜県大会・決勝戦の日。輝夫さんは少し心配の様子です。不安的中。前半から関商工が立て続けにトライ、14対29と大きく引き離されてしまいました。

後半、岐阜工業は徐々にペースをつかみます。ここで抜け出したのが侑輝さん。トライを決めました。