青森県外で活躍する青森県民を紹介するターニングポイント。人生の転機となったその時、どんな思いや決意があったのでしょうか。今日のストーリーは、平内町出身で津軽三味線/津軽手踊りの師範・高橋竹春さん。

津軽三味線の第一人者である初代高橋竹山、その弟子であった高橋竹善を師匠とし現在は高橋竹春の名で演奏や指導し活躍している。

竹春の子供時代はお喋りが大好きな元気いっぱいの女の子だった。

高橋竹春「兄が本当におとなしい子で、お兄ちゃんなのに何であんたはってしょっちゅう言われるぐらい、うるさい子でした」

子どもの頃の高橋竹春

母親が津軽手踊りを習い始め、自らも5歳で始める。最初はテレビで見るアイドルのバックダンサーのような踊りを想像していた。

高橋「スクールメイツみたいな、ああいう踊りかなとかって思いながら行ったら手踊りの中に『は!イチ ニッ』と踊りはじめに声を出すものがあって、その『は!』からお稽古が始まって、そこからのめり込んでいって大好きになりました」

その頃、手踊りの教室に来ていたのが三味線の師匠である高橋竹善。手踊りにも繋がると思い津軽三味線の師匠に習い始める。一度、三味線から離れて就職したが、再び三味線魂に火がついた。竹春の名前で活動を再開する。

高橋「名前も変わり、気持ちも変わり、お稽古の回数もやっぱり変わった」

時々、高橋竹山へのお使いを頼まれることもあり、それは圧倒的な存在感だった。

高橋「とにかく演奏ももちろんですけど、人柄が深くて大きい」

師匠とともに海外公演など様々な場所へ行き、手踊りや三味線を奏でた。ところが高橋竹山の訃報を聞いた数日後、師匠である竹善も病に倒れてしまう。

■師匠 高橋竹善との別れ

高橋「竹山先生が亡くなった後から竹善師匠が入院し始めたりして、何回も入退院して、竹善師匠が『なぁ お前生徒たち頼むな』って言われたときに『はい』って返事して。娘のように可愛がってくれたので、親みたいな存在ですよね」

師匠を失った喪失感の中、後継者として三味線教室や公演をきちんと引き継がなければならないことを自覚し、三味線を奏で続けた。しかし、青森での公演が予定されていた日、あの震災が起こる。


高橋「その地震の日もお仕事だったんですね。青森市内のホテルで今日のイベントは少々お待ちくださいっていうのが二、三時間待ち、結局ないですっていうお客様」

その後、元々竹善のファンだった旦那様との結婚を機に上京。三味線を通して離れていても青森の生徒さんたちをはじめとする人との繋がりを一番大切にしている。

竹春の生徒さんたち

生徒は「100を教えてくださるんではなくて、50教えてあと研究しておいてっていう形で自由にさせてくださるところがすごく、素敵なところだと思います」
「いつか竹春先生の教えを通して、いろんな方に森の活用さを伝えていけたらいいなと思います」

高橋「今来てくださってる生徒さんに対して、1人1人向き合いながら大事に教えていきたいなっていうのはもう常に思ってます。周りの人に恵まれてるなっていうのをひしひしと常に感じてます」