広島は6日に78回目の原爆の日を迎えます。原爆によって最も多くの生徒を奪われた学校が広島市立第一高等女学校です。同窓会や遺族の手元には少女たちの生きた証があります。

広島市中区の平和公園のすぐそばに、広島市立第一高等女学校の慰霊碑があります。当時「市女」と呼ばれていました。市女は、現在の広島市立舟入高校の前身です。同窓会には、いまも、当時の資料が残っています。

舟入・市女同窓会 住田恒三事務局長
「紙の材質もいいものではないので。ボロボロになって、破壊される寸前というような状況。ほぼ80年前のもですので」

資料にある学籍簿には、死亡を意味する赤いチェックが並びます。1945年8月6日市女の1、2年生は、慰霊碑が建つ今の平和公園の南側あたりで、空襲に備えて防火帯を作る「建物疎開」という作業に動員されていました。作業していた541人全員が死亡しました。市女の生徒の犠牲は666人に上りました。広島の学校の中で最も多くの生徒の命が奪われました。

原爆資料館(広島・中区)に展示してある一つのカバン。持ち主は、当時市女の2年生だった藤井満里子さんです。建物疎開の作業中に被爆した満里子さんは遺体も見つかりませんでした。唯一見つかったのが、このカバンでした。

「仏壇の引き出しの中にね、あの袋が入っていたみたいですね」。福山市に住む大村宏子さんです。満里子さんの9つ下の妹です。満里子さんの母は、いつまでも娘の帰りを待ち続けていたといいます。

大村宏子さん
「『行ってきます』って朝出かけたっきり、家帰ることがなかったわけですから。あの小さな仏壇の前で「満里子ちゃんごめんね、満里子ちゃんごめんね」ってね、母はね、謝ってたのよ」

満里子さんを感じられるものがもう一つありました。満里子さんが小学校3年生のときに書いた書です。「文武一如」。力強く書かれた筆跡に、満里子さんの面影を感じることができます。

大村宏子さん
「これだけは母が残してた。母はよっぽど満里子姉さんのことが、心残りだったんだろうなって」