1959年の宮森小学校ジェット機墜落事故で、当時、現場に駆け付け目に焼き付いた光景を絵画に描いた男性がいます。絵を描くまでの葛藤と絵に込められた思いを取材しました。
「事故の実相を伝えたい」絵に描かれる裸の女の子と手をひく男性

宮森小学校に、アメリカ軍の戦闘機が墜落した事故を描いた絵画。燃え盛る炎に包まれるヒマワリは、事故に巻き込まれた子ども達を表現しています。
そしてその傍らには、裸の少女の手をひく男性が描かれています。
伊波則雄さん(85)
「玲子さんをどう表現するのか、そのままありのままで表現していいのかな。少しは隠すべきかなと思ったが、そういう風にありのままがいいのかなと思って、ありのままで描いた」

伊波則雄さん、85歳。事故当時、宮森小近くの中学校で教員をしていて、墜落直後、かけつけた現場で女の子を託されました。
伊波則雄さん(85)
「おぶっていこうと思って、『だー、背中に乗りなさい』と言うが動きもしない。お尻上げようとすると、お尻の皮が火傷でかめくれあがって。抱っこもできんなと。そのまま手を引きなおして、連れて行こうと」

女の子は、当時小学2年生だった喜屋武玲子さん。服は全て焼け、むき出しになった肌は青白く、生気はありませんでした。重度の火傷を負っていて、その後アメリカ軍の病院に運ばれましたが、その日のうちに亡くなりました。
伊波さんは、玲子さんの生々しい姿を見せたくないという遺族への配慮と、事故の実相を伝えたいという思いの狭間で、葛藤した日々を振り返ります。
伊波則雄さん(85)
「玲子さんに対しても、家族に対してもそういう姿を見せるということは非常に残酷だと思うが、しかし、それは歴史上の事実でもあるし、事実を曲げてもいけないし。こういう風な恐ろしさがあるんだよ、自分の思うよりも現実はもっと怖いというということをやっぱり示したい」

64年前の6月30日、嘉手納基地を飛び立ったジェット戦闘機。整備不良だった機体は空中でコントロールを失い、民家をなぎ倒し、現在のグラウンドあたりに立ち並んでいた校舎に衝突しました。
児童や住民あわせて18人が亡くなり、200人余りが重軽傷を負いました。
重傷者はアメリカ軍のヘリで陸軍病院に運ばれ、専門的な治療を受け、一命をとりとめた人も多くいます。その一方で近年、アメリカ軍による治療の別の意図が浮かび上がっています。