
東京・両国にある、「下総屋食堂(しもふさやしょくどう)」。創業は1932年。
ガラスケースから客が総菜を取り出して食事するスタイルは、創業当時のままです。

約10万人が命を落とした東京大空襲で、周辺は焼き尽くされました。この下総屋食堂は奇跡的に難を逃れ、当時と同じ建物で営業を続けています。

眞野和雄さん(当時90歳)
「隅田川にね、死体がいっぱい浮かんでね。朝行ったらね。ひどいもんだったなあ、あの惨状はね」
こう話すのは、近所に住んでいた眞野和雄さん、90歳。
父親が経営する運送会社の運転手たちが、食堂に通っていました。
記者:おいしかったんですか?
眞野和雄さん(当時90歳)
「美味いわけないだろう。腹がいっぱいになれば良いんだもん。食べるところがないから、みんなそこで食べたもんだよね」
戦時中、国の統制下に置かれた食糧の流通。
自炊が難しい単身赴任者などには、配給の代わりに外食券が発行されました。

各地の食堂は外食券がないと食事ができない、『外食券食堂』へと姿を変えていきました。
眞野和雄さん(当時90歳)
「下総屋なんかね、典型的な外食券食堂だったからね。俺が小学校行くときにみんな並んでたよ」
空腹を満たすため、公園や学校の校庭、さらには国会議事堂の前でも、芋などの栽培が行われました。
「餓死」という言葉が現実味を帯びた時代でした。

眞野和雄さん(当時90歳)
「日本中全部ひもじい思いしたもん。いやーひどい時代だったね。たまに白米食わしてくれるんだけど、嬉しかった。白米、おかずいらないよ。ご飯だけでおいしいんだよ」
戦後76年…店にはある変化が起きています。
雰囲気のある店内が映画「闇金ウシジマくん」やシンガーソングライター小沢健二さんのミュージックビデオなど、数多くの映像作品で登場するようになりました。
この日は、店で撮影されたミュージックビデオを観た20代の客が来ていました。

お客さん(20代)
「戦前もここがみんな来る憩いの場だったんだなって思うとすごく感慨深いですし、ずっとこういう場所がなくならないで欲しいと思います」
眞野さんは改めて、平和への思いを訴えます。

眞野和雄さん(当時90歳)
「昭和一桁生まれの人間にとっては、今ほどいい時はないよ。食べ物おいしいし俺は今一番いいよ。最高だよ。やっぱり平和は良いよな」














