熊本地震から7年。皆さんのあの日の経験を伝えるシリーズ、「私たちが知らない熊本地震」壊滅状態の工場の再建に奮起した人々の記録と記憶です。
西原村にある堀場エステック。半導体関連の装置を手掛ける工場です。

7年前のあの日、工場の日常が一変しました。

堀場エステック 阿蘇工場 深水保さん「会社これどうやって復旧していこうかというのが最初に頭の中によぎった感じですね…」

天井は抜け落ち精密機器はほとんどが壊れて使えなくなりました。

深水さん「もしそこに人がいたらたぶん大けがじゃ済まないなと」

けがをした従業員はいませんでしたが設備の被害は甚大で工場を再稼働できるかは全くわかりませんでした。


福永創一さん「工場無くなるんじゃないかなって。もし、無くなったら自分どうしようというところも考えたので」

多くの従業員は自宅も被害を受けていた中、自らの職場を復活させるため奮起しました。

その様子をカメラで撮り続けた旭裕輔さんです。
旭裕輔さん「やっぱり、この工場を残したい、発展させたいというみんなの思いがあったんじゃないかなと」

旭さんは写真撮影の傍ら、昼食の炊き出しを2週間以上続けました。

旭さん「同じ釜の飯を食べて、みんなで復旧作業をしたのが一番の思い出で、そんな中で団結力っていうかそういうものが生まれてきたと思う」

そして、地震から2週間後には工場の8割を稼動させるまで復旧を果たしたのです。

そんな工場に地震の翌月、グループ会社から応援メッセージが書かれた旗が送られてきました。

藤本豊久さん「見たときは涙が出そうになりましたね」

当時のことを忘れないように、と旗は今も工場に飾られています。
藤本豊久さん「今1000人ぐらい(工場で働く人が)いるんですけど、半分以上が震災を経験していない人たち。こういうのを見てずっと伝えていくっていうのが我々の役目かなと思っています」

そして、地震直後、従業員の心を一つにした『炊き出しのカレー』は今でも年に1度、振舞われています。
