虐待などで親と一緒に暮らせない子どもの数は、札幌だけでおよそ700人。そうした子どもを、もとの家庭で生活できるようになるまで、一定期間養育するのが里親です。過酷な体験をしながらも、里親に感謝しながら前を向いて生きる女性です。
ピラティス教室
「息を吸って準備。吐いて~」
ピラティスの教室を開いている米田幸代さん。ピラティスを始めたのは、3年前、うつ病になったことがきっかけです。原因は離婚でした。一時は、人と話すのも怖くなり、外にも出られない状態に…。そんな中、ピラティスと出会い、心と身体のバランスを取り戻したといいます。
米田幸代さん
「1度きりの人生なので、楽しく歩んでいくためのお手伝いができたらいいなと思う」
明るく話す米田さんを支えているのは、過酷な経験を乗り越えてきた強さです。
米田幸代さん
「(これから講演会どうですか?)お話させていただけることに感謝しています」
米田さんは、産まれてからすぐに里親に預けられました。里子経験者として、この日、里親へ向けて講演をします。
米田幸代さん
「里親さんはとっても優しくて、しつけはされても怒られたことはほとんどありませんでした。とにかく里親さんに悲しい思いをさせたくないと思っていた」
しかし、実の母親と暮らすことへの憧れは、消えませんでした。小学4年生のとき、その実の母親から「一緒に住まないか」と連絡がきます。憧れていた母親との生活は、想像とはまったく違いました。
里親に育てられた米田幸代さん。実の母親と暮らし始めますが、母親の世話や料理、洗濯などを全て行う、つらい日々でした。
米田幸代さん
「私が寝ているとき、母が私の頭を踏みつけてくるんですよ。母が去ったあと、ばれないように布団をかぶって、布団に口を加え泣き声がもれないように泣いていた」
このまま母親と暮らしていると、「自分の人生が母親に食べられる」。そう感じた米田さんは、14歳のとき、自ら児童養護施設に入る決断をします。北広島にある「天使の園」です。
米田幸代さん
「ああ、これこれこれ」
施設に入ったものの、集団生活に馴染めなかったといいます。
米田幸代さん
「あぁ、昔のこと思い出してきました」
実の母親とのつらい日々を経験した少女は、自己肯定感が低く、疎外感を強く感じていました。
米田幸代さん
「弾けないけど弾いてみる?私絶対、弾けなくなってるわ」
「ああ、…全然覚えていませんね」
1人になりたいときに向き合ったピアノ。弾くのはいつも「エリーゼのために」でした。
米田幸代さん
「本当にあのとき頑張ったなって思い出しますね。そのときは、大人の人があまり信頼できなかったので、こういう自分の安心できる場所を施設内で見つけて、自分の居場所を一生懸命作ろうとしていたと思う」
天使の園 家庭支援専門員 金森俊樹さん
「性格的には明るい子だったんですけど、いろいろな困難の中で生活をしてきたので、人に対してどこまで自分の気持ちを受け入れてくれるのか?という試し行動があったのは覚えている」
米田さんにとって施設は「生きていくための大切な場所」となりました。
その後、施設の先生のアドバイスで、名古屋の専門学校に進学。しかし、母親からのカネの無心が続きます。
学費が足りなくなり、進級が厳しくなった米田さんは、意を決して里親に電話します。
米田幸代さん
「泣きながらお金を貸してほしいですって、そしたら里親さんが『幸代、返さなくていい。自分のために使いさなさい』って、私、里親さんのところを離れたのは、自分が親を選んで離れたっていう負い目を感じていたのと、後は、そんな里親さんに迷惑をかけたくなかった。でもそうやって、10万円をくれたときに『あ、私って里親さんに愛されていたんだ』ってわかった感じですね」
現在の夫の容平さんは、3年前、里親のお父さんが亡くなったとき、葬式で再会したのが縁で結ばれました。
米田幸代さん
「里親さんがいなければ今はないと思っていますから。育ててくれて、出会ってくれて、本当に心から私のことを思ってくれてありがとうございます。それを私が、今度はお返ししていくから、見ててほしい」
里親のお母さんと“ある約束”を交わしています。
里親
「子どもいないの?」
米田幸代さん
「いないの」
米田幸代さん
「子どもできるまで死なないで~」
里親
「幸代とは、赤ちゃんのときから育てた」
そして先月…。
医師
「袋が2つあるでしょ。二卵性の双子だわ」
米田幸代さん
「わあ、うれしい!」
米田さんには。2つの命が宿っています。その命を、今、大切に育んでいます。里親のお母さんとの約束を果たす日を待ちながら。
12月5日(月)「今日ドキッ!」6時台放送