日米合わせて20万人の死者を出した沖縄戦。国内最大の地上戦が繰り広げられたその地に、アイヌの言葉が刻まれた慰霊碑がたっています。ともに沖縄戦を戦った、アイヌと地元住民の絆に迫ります。
沖縄戦の激戦地となった糸満市真栄平(いとまんし・まえひら)。
木漏れ日が差し込む集落の高台に「南北之塔」と刻まれた慰霊碑がひっそりと佇んでいます。
「キムンウタリ」。アイヌ語で「山の友」を意味しています。
終戦が近づく1945年。
アメリカ軍の空襲や射撃で戦火に散った北海道出身者は、沖縄県に次いで2番目に多い1万人余りでした。

慰霊碑の建立に携わったのが、北海道東部の弟子屈町出身の元アイヌ兵・弟子豊治(てし・とよじ)さん。
真栄平の地で、すぐに地元住民と打ち解けました。
戦火をくぐり抜けた弟子(てし)さんは、戦後も真栄平との交流を続けました。
元アイヌ兵 弟子豊治さん
「沖縄に行ってくるよ、もう1回。線香あげて、お参りしてくる」

弟子さんが生前、兄弟のように仲良くしていたのが、戦時中に真栄平で知り合った仲吉喜行(なかよし・きこう)さんです。
真栄平出身 仲吉喜行さん
「弟子さんが最初に来たときはここに遺骨が全部投げ込まれていた。これを見て弟子さんは『このままじゃいけない』と言って、いつか立派な塔を建ててやろうと考えていた」
身元がわからないすべての戦没者の遺骨を納め、慰霊したい。
地元の人たちと弟子さんらの強い思いによって、1966年に建てられたのが「南北之塔」でした。

記者「これ北海道のですよね?」
喜行さんの甥 金城善清さん(75)「これは弟子さんが持ってきたと聞いている」
真栄平に暮らす仲吉勇(いさむ)さんと、その甥の金城善清(きんじょう・ぜんせい)さん。
勇さんは、弟子さんと交流を深めた仲吉喜行さんの弟です。
アイヌ民族の印象を語ります。
喜行さんの弟 仲吉勇さん(78)
「沖縄県民と全然変わらないと思う。見ても分からない。全く同じ顔をしている」
喜行さんの甥 金城善清さん(75)
「(弟子さんは)ちょっと寡黙な感じ。あまり会話をしたことがなかったけど、歩いて『南北之塔』や壕に一緒に行った」

ともに独自の文化を築いてきた沖縄とアイヌ。2人は、アイヌへの偏見はないと断言します。
両者を強い絆で結ぶ象徴でもあった「南北之塔」ですが、ある書籍がきっかけで、亀裂が生じた時期がありました。