母親が日中戦争の戦地で傷病兵の看護に

(諏訪妙子さん)
「母は、日赤の従軍看護師として、私がお腹の中に宿った時に第1回目の赤紙がきたそうです」
講話したのは、倉敷市に住む諏訪妙子さんです。生まれて間もない1939年の3月、母親は、再び届いた召集令状=赤紙を受け取ると、日中戦争の戦地で傷病兵の看護に当たり、その後、現地で病死したということです。戦後も、生活が苦しく看護師になる夢をあきらめた諏訪さん。約20分の講話で最後に訴えたのは、戦争のない平和な世界です。

(諏訪妙子さん)
「一人一人が命を大切に、そして、どうか苦しい時はみんなで助け合い、うれしい時はみんなで喜び合っていける世の中になってほしい」
(参加者)
「(諏訪さんの)講話を初めて聞いた。私もいい年ですけど。本当に貴重な話を聞けました」

(岡山県遺族連盟 三宅禎浩理事長)
「やはり戦争はしてはいけないという。これをPRをして、次の世代へなんとかつないでいかないといけないと思う」
記憶を風化させないために…。岡山県遺族連盟では今後、年に4回程度、「平和の語り部講話会」を開くということです。















