NBC被爆80年シリーズ企画「銘板が伝える8.9」。第14回は、長崎県立総合体育館の場所にあった長崎商業学校です。

爆心地から北西におよそ1.1キロ。長崎市油木町、現在の県立総合体育館の場所に、長崎商業学校はありました。

鉄筋コンクリート3階建ての本館、別館、講堂、雨天体操場、その他木造建物。比較的安全地帯とされており、三菱兵器製作所が1944(昭和19)年に工場の一部を疎開、本館1階には機械工場が、木造建物には精密工場が置かれていました。

原爆で、建物はすべて倒壊、鉄筋コンクリートの校舎は、外壁を残して全焼しました。疎開工場には三菱の従業員、女子挺身隊、動員学徒あわせて100人程がいたとも、数百人がいたとも伝えられています。

橋口平八郎さんは被爆当時12歳、長崎市立商業学校の1年生でした。あの日、橋口さんは学校のそばで防空壕掘りをしていた時に被爆しました。

橋口平八郎さん:
「全く違った光景。今まで青々とした草地が緑地が茶色、真っ茶色。友達がみんな外におったものはやけどして皮膚はもう垂れ落ちてですね太陽が照っている所にいた人は全部亡くなった。火傷して。防空壕に入っていた者だけが陰にいた者が助かった」

最初に出火した場所は本館2階の教室で、3昼夜燃え続けました。長崎市立商業高校の「原爆資料」によると、学校、動員先、自宅で死亡した人は教職員13人、生徒162人、合計175人とされています。

橋口さんは、学校の先輩が建物の下敷きになり、亡くなったと証言しています。

橋口平八郎さん:
「軍需工場があって、校舎の横にそれがひっしゃげるところを私は見たんですけども下敷きになって先輩方が『助けてくれ、助けてくれ』ってなことで、もう水がないんですね。かけたらふっと一応消えるんだけども、まだ次に来た時はもっとひどく燃えている状況。だからどうしようもなかったですね。で最後はね。『助けてください』本当に今でも忘れてませんね。あの悲しい声は」

長商は1945(昭和20)年9月20日、桜馬場町の寮で授業を再開、同年12月に上長崎小学校に移り、翌1946(昭和21)年12月、被爆校舎に戻りました。

1985(昭和60)年に、創立100周年を記念して新校舎の建設に着手、翌年に完成、油木校舎跡は、長崎県立総合体育館などになりました。生徒175人が犠牲になったと銘板には記されています。