終戦1か月前、札幌も激しい空襲の標的となりました。その空襲を目の当たりにした当時15歳だった男性は、学ぶ機会を奪われ、札幌の鉱山での過酷な労働の日々を強いられました。
■《15歳の少年が見た札幌空襲と、過酷労働の現場》

このマチが “軽川(がるがわ)”と呼ばれていた、終戦1か月前の7月14日と15日。激しい空襲が、現在のJR手稲駅周辺に襲いかかりました。
小山田碩さん(96)
「戦闘機が来て、ババババって撃ったんですよ。(現在の手稲駅前にあった)製油所に当たって、バーて火が上がって、うわー、本当に恐ろしいものだなと思った」
小山田碩(おやまだ・せき)さん、96歳。15歳のときに、札幌空襲を目の当たりにしました。

小山田碩さん(96)
「すっかり住宅になっちゃった」
札幌市手稲区の住宅街。小山田さんは当時、近くにあった『手稲鉱山』で、過酷な労働の日々を強いられました。
『手稲鉱山』は、1935(昭和10)年に採掘が始まり、1971(昭和46)年に閉山しました。鉱山から金属成分を取り出す“選鉱場”は、東洋一の規模と言われ、最盛期には1.6トンもの“金”を生産していました。
戦時中は2千を超える人が働き、小山田さんも、その一人でした。

小山田碩さん(96)
「(手稲鉱山では)銅が取れるんです。使い道が豊富で、増産したんだと思います。銅は、機関銃の部品や鉄砲の部品に使われたのではないか」