終戦の年の4月、すでに沖縄戦も始まっていたころ、石垣島で米軍機搭乗員3人が日本兵によって殺害された石垣島事件。撃墜した機からパラシュートで脱出した3人を捕らえてその晩に殺害したことは、終戦後「捕虜虐待」としてBC級の戦争犯罪に問われることになった。処刑の実行役に指名され1人の米兵を手にかけた幕田稔大尉は、1947年2月、スガモプリズンに収監された。シベリアから帰還しない父にかわり、家族を養うため函館市の魚粉会社に働きに出ていた幕田。息子の無実を信じ、ふるさとの母はマッカーサー宛てに嘆願書を書いたー。

母の愛情はどこの国も変わらず

生家に残されていた幕田稔の幼いころの写真

スガモプリズン最後の処刑で命を絶たれた幕田稔大尉の生家は、山形市にあった。築100年を超える古民家だ。ここには、幕田が使用した教科書や、少年時代の写真、幕田がスガモプリズンに囚われた後、母トメが弁護士や関係者から受け取った手紙などが残されていた。その中に母トメが書いたとみられる嘆願書の下書きや清書などが何枚もあった。書き直しては校正を重ね、最終的に専門の人に頼んで清書したものを提出したようだ。日付は1947年6月7日だ。

<幕田トメが書いた嘆願書 1947年6月7日>
嘆願書 元海軍大尉 幕田稔二十九歳(※注・数え年で記載 満年齢28歳)
私は幕田稔の母でございます。子供の母として一筆認めることの失礼お許し願います。過日、稔は巣鴨拘置所に入所し、子供恋しさのあまり東京に参り、訪れましたが、マッカーサー司令部の寛大なる好意により毎日、何不自由なく元気に過ごしているから、心配なき様に云われましたが、母の嘆き、世の子を持つ母の常としての愛情はどこの国も変わらざる親子の愛情と思います。自分の子を信じ、飽きるまでも自分の子供と生きる楽しみ、自分の子供のために生きた母の苦労を述べる事を重ねてお許し下さい。