被爆詩人 原口 喜久也さん(享年 40)

59年前、ひとりの被爆詩人が、長崎の原爆資料館で自ら命を絶ちました。
なぜ、死に場所に原爆資料館を選んだのか。
そして"自らの死"をもって、何を訴えようとしたのでしょうか?

■ 「世は原爆なんてとっくの昔に忘れてらあ…」

長崎原爆資料館の前身、国際文化会館。
1963年、ここで1人の被爆者が首を吊って亡くなりました。
被爆詩人 原口 喜久也さんです。

その時誰かが俺の背後でつぶやく…世は原爆なんてとっくの昔に忘れてらあ…と俺はその声にふり向くが誰も誰もいない (現代のカルテ「じゅずのうた」より)


原口さんの死後、友人達の手で出版された遺稿詩集『現代のカルテ』(1964年)。
この詩集との出合いをきっかけに原口さんに光を当てようとしている人がいます。

西村 豊之さん(84)「最初は『現代のカルテ』と出合って。原爆資料館を死に場所に選んだというのは何か意味があるなと思ってね」

福岡市に住むルポライター西村 豊行さん。去年から原口 喜久也さんの取材を進めています。

■ 教師仲間が出版した遺稿詩集「現代のカルテ」

原口さんは1923年、長崎市磯道町で「原口医院」の長男として生まれました。

出身地の近くに同じ名前の病院をみつけました。関係はあるのでしょうか?

原口医院 院長の原口 千春さんに、話を聞いてもらえることになりました。

西村さん「原口 喜久也さんの事を調べ始めたんですね」
原口 千春さん「原口 喜久也と、うちの親父が従兄弟です。(喜久也さんの)本は見たこともないし、実家にもないですね」
西村さん「直接、喜久也さんに会って覚えてる人は?」
原口さん「…いない。どんなして亡くなったのかも知りませんけど…。どうやって亡くなったんですか? 僕がかえって聞きたい」

原口院長は、喜久也さんの「従甥(いとこおい)」に当たる方でした。

喜久也さんは家業を継がず20歳で日大芸術科に入学。その後、軍隊に所属していた時に終戦を迎えており、戦後は中学校の教師として働きました。
13年間で7つの学校に勤めています。

原口 喜久也さんの教え子 長崎被災協 田中 重光会長

長崎原爆被災者協議会の会長を務める田中 重光さん。実は原口 喜久也さんの時津中学校時代の教え子だったことが分かりました。

原口 喜久也さんの教え子 田中 重光さん「ちょうどね、英語と国語を教えてもらった。授業の合間にフルートとかバイオリンとか聞かせていた。しかしバイオリンなんかギーギーいってね(笑)決して上手じゃなかったとばってんが、子供達に退屈させんように。病気のせいか分からんけど、よー鼻をかみよった」

原爆投下の23日後に軍隊から長崎に戻り22歳で入市被爆。恋人は原爆で死亡しました。自身も土井首中学校で働いていた39歳の時に倒れ『骨髄細胞腫』と宣告されています。

田中さん「後から聞いた。"どうして亡くなったの ? "って聞いたら、白血病になって入院中に抜け出して亡くなったと聞いた。一つは原爆に抗議したのではないかなと思う。(死に場所に)資料館を選んだという事は」

命日となったのは桜の季節、3月14日。決意の自殺とみられています。

仕方がない!よし!墓場の下で文学作品を書き続けるぞ(遺稿詩集『現代のカルテ』自殺前夜 病院で)

原口喜久也さんの遺稿詩集『現代のカルテ』。
出版したのは時津中学校時代の教師仲間だったことが分かりました。