来年5月に2号機の再稼働を控えた宮城県の女川原子力発電所。およそ50年前、女川町では原発誘致を巡り町民を二分する激しい対立がありました。当時を知る人たちは、震災を経て再稼働する女川原発をどのように見つめているのでしょうか。

女川町の町議会議員、阿部美紀子さん(71)です。23歳のときから48年にわたり原発への反対運動を続けてきました。

阿部美紀子さん:
「原発は危ない、危険だって思ったのと、どういう風に原発と関わっていくかっていうことを考えましたよね」

阿部さんが、一枚の写真を見せてくれました。写っているのは今は亡き父親、宗悦さんです。

原発反対派のリーダーのだった父

阿部美紀子さん:
「写真、あんまり残ってないけど、津波で見つかった父の若い頃の原発反対闘争しはじめた頃の写真だと思う」

阿部さんが反対運動に参加するようになったきっかけは漁師だった父・宗悦さんの存在でした。宗悦さんは町に原発誘致の構想が持ち上がった当初から反対運動を行っていました。

阿部美紀子さん:
「あちこちの、雄勝町とか牡鹿町とかしょっちゅう出歩いていました。仕事放り出して行ってるから。ふつうのこと。私たちにとっては当たり前のことだった」

1967年、地方への原発の適正配置を求める国と、原発を地域活性化のきっかけにしようとした県や女川町の思惑が一致し、誘致が正式に決定。建設場所には地質や地形の条件が揃っていた小屋取地区が選ばれました。

これに強く抗議したのが、なりわいの継続と原発の安全性に不安を募らせた地元の漁師たちでした。