74年前の10月19日は太平洋戦争で捕虜の虐待などにかかわったとされ、「戦争犯罪人」として罪に問われた「BC級戦犯」の裁判が終了した日です。裁判では、喜界島で捕虜になったアメリカ兵が日本軍によって殺害された「喜界島事件」も扱われました。

「あの時、島で何があったのか?」当時、事件を目撃した92歳の男性は、戦後78年たった今も真相を追い続けています。

■「部下に殺害を命令した」とされた佐藤勇少佐

1948年7月に横浜で撮影された軍事裁判の写真です。

中央の男性は、海軍喜界島航空基地の司令を務めていた佐藤勇少佐とみられ、両腕には囚人を意味するPrisonerの頭文字「P」の文字が確認できます。

1945年、喜界島で捕虜となった2人のアメリカ兵が殺害された喜界島事件。佐藤少佐は「部下に殺害を命令した」としてBC級戦犯の罪に問われ、絞首刑となりました。39歳でした。

(大倉忠夫さん)「これは佐藤勇さん、死刑になった人。こう書いてある。イサム・サトウの本件については絞首刑判決を承認する」

■ふるさと喜界島も“戦場”だった 処刑の真実を探る老弁護士

神奈川県横須賀市に暮らす喜界島出身の大倉忠夫さん(92)です。弁護士として働く傍ら、喜界島事件を調査しています。


少年時代を過ごした喜界島では、太平洋戦争でアメリカ軍の空襲を受け1900戸が焼失。119人が死亡しました。

(大倉忠夫さん)「土のにおいがする煙が(防空壕の中)に入ってきた。これは近いなと言う風に思って恐怖を感じた。びくびく震えていたと思う」


喜界島事件がおきたのは1945年。空中戦の末、落下傘で島に降りたアメリカ兵2人が捕虜となり、海軍喜界島航空基地の日本軍によって殺害されました。刀で首を切りつけられ、発砲されたとされています。



当時13歳だった大倉さんは、その直前の様子を友人と目撃したといいます。