4月、ウクライナの女性が、幼い子どもを連れて、高知県に避難してきました。女性は6月上旬、ウクライナに残った母の容態が悪くなったため、一時帰国。その際、手紙で、避難する前の恐怖におびえた生活、避難の途中にショックで娘がしゃべらなくなったこと、そして、避難を受け入れた日本への感謝を、つづりました。

パルチューク・ナターシャさんの手紙


《ウクライナから娘と避難 パルチューク・ナターシャさんの手紙より(6月18日付)》
現在私たちは、故郷ウクライナの実家にて、母の看病をしています。母は高血圧の症状が重く、あまり無理ができません。定期的に薬が入手できないことが不安ですが、食べ物は手に入れることができ、とりあえず生活はできています。しかし、戦争による危険と町の治安の悪さがあります。いつでもシェルターに避難できるように、小さな家で家族3人で暮らしています。

■街に“ミサイル”が…「死ぬかもしれない」恐怖におびえる日々・母は「ここで死ぬ」避難せず

2月に戦争が始まって以来、私たちの生活は変わってしまいました。3月1日に私の街、ジトーミルにミサイルが落ちてから、恐怖におびえる日々でした。死ぬかもしれないという恐怖から、『生きるための行動』を決心するのには、たくさんの問題がありました。「この場所から逃げるしかない。しかしどこに行けばいい?どうやって?」食べることや、お金のこと、母と私と、幼い娘の3人では、十分準備してから逃げることはできませんでした。

母は高齢で体調も良くないし、外国にも行ったことがありません。「この戦争でウクライナがロシアに負けたら、私はここで死ぬ」と言って、一緒に逃げようとはせず、説得することはできませんでした。3月12日、「これで最後になるかもしれない」という思いで、私たちは母をおいて、ウクライナを離れました。

■「娘はショックでしゃべらなくなった」大声で、嘆き悲しむ人々

何度も何度も、家を出てから日本に来るまでの不安な気持ちや、母のことを思い出します。避難の途中、日本の友人と連絡を取ることができました。無事に日本まで避難すること、娘を安全なところまで連れていくことに必死でした。

パルチューク・ナターシャさんの手紙


ウクライナの避難の途中には、電車が空襲警報で止まることもありました。駅や路上では、行き場のない、たくさんのおじいさんやおばあさんが、大声で嘆き悲しんでいました。そんな中を、娘の手を取って歩きました。小さなスーツケースを握りしめた娘は、周りの光景にショックを受けて立ち止まり、私はその娘を抱きしめながら、移動手段を探し求めました。しばらく、娘はショックと疲れでしゃべらなくなってしまいました。